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天下の奇才、諸葛孔明の全貌!史上最も[賢い男]の真実

2024年6月26日


孔明と司馬懿

 

待て、あわてるな、これは孔明(こうめい)の罠だ。

 

孔明

 

横山光輝(よこやまみつてる)三国志』では曹操(そうそう)司馬懿(しばい)が異常なほど警戒していた孔明の罠。『三国志』を知るよりもはやくインターネットの片隅でこの言葉に出会った人もいるでしょう。孔明とは諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)のこと。蜀の劉備(りゅうび)に仕えた稀代の天才軍師です。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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草廬に潜む伏龍

孔明と徐庶

 

曹操に敗れて荊州の劉表(りゅうひょう)の元に落ち延びていた劉備。久しぶりに戦いとは縁遠い穏やかな日々を送っていたものの、同じ頃旗を揚げた曹操には随分と差をつけられ焦り始めます。

 

劉備軍で指揮を執る徐庶

 

そんな時、劉備の元に出入りしていた客人の徐庶(じょしょ)が荊州に潜む大賢人の話を持ってきたのです。「私の友人に伏龍、もしくは臥龍と称される大賢人がいます。彼は晴耕雨読の日々を送り、草ぶきのあばら家で寝起きしていますが、梁父吟を口ずさみながら、真に仕えたいと思う主君を待ち望んでいるのです。」

 

孔明

 

この伏龍こそが諸葛亮孔明でした。これを聞いた劉備はすぐにでもその伏龍に会いたいと目を輝かせます。しかし、徐庶は自分が呼んだくらいで来てくれるような人物ではないと言います。そこで、劉備は直々に伏龍の草廬を訪れることにしたのでした。

 

 

三顧の礼により迎え入れられる

孔明の家に行く桃園三兄弟

 

さっそく伏龍先生を訪ねる劉備でしたが、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)も「二回りも年下の奴に何でこんなに礼を尽くすんだ…」と不満げ。それでも劉備はこれから出会う伏龍先生を思いワクワクしていたのでした。

 

諸葛均 孔明の弟 ゆるキャラ

 

 

しかし、一度目はからぶり。日を改めて訪れても伏龍先生に会えません。弟の諸葛均(しょかつきん)には会えたのですが、お目当ての諸葛亮は不在

 

劉備と孔明に嫉妬する関羽と張飛

 

張飛も関羽もイライラ…。それでも懲りずに再び戸を叩く劉備。なんと今度はお昼寝タイム!張飛は諸葛亮を叩き起こす!と息巻きますが、劉備はそれをなだめて諸葛亮が起きるのを静かに待ちました。劉備が無位無官の自分のためにここまで礼を尽くしてくれたことに諸葛亮は感銘を受け、劉備に仕えることを決意します。

 

孔明による出師の表

 

諸葛亮は劉備亡き後その子・劉禅(りゅうぜん)を叱咤激励するために認めた銘文「出師の表」にもこの出来事を「三顧の礼」として記しています。

 

天下三分の計を唱える

 

劉備

 

伏龍を起こすことに成功した劉備は、さっそくどのようにして曹操を倒し、漢王朝を再興すればいいのかを諸葛亮に尋ねます。諸葛亮は、「まず天下を3つにすることです」と答えます。その頃中国大陸に存在していた大きな勢力6つほど。

 

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

曹操、孫権(そんけん)、劉表、劉璋(りゅうしょう)張魯(ちょうろ)馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)といった面々でした。劉備はそのとき劉表が治める荊州にいましたが、諸葛亮はその覇権を奪い取り、隣の劉璋が治める益州も奪い取ることを勧めます。

 

劉備と孫権と劉備

 

 

おそらく曹操や孫権もじきに他勢力を飲み込むだろうということで、劉備・曹操・孫権の3人で天下を3つに分けることを提唱。最終的には、孫権と手を組み曹操を滅ぼし、機を見て孫権も滅ぼして漢王朝を復興しようと唱えたのです。劉備は諸葛亮の知見の深さに驚嘆するばかり。ますます諸葛亮に惚れ込んでいったのでした。

 

 

 

主君亡き後も蜀に尽くす

劉備に遺言を聞く孔明と趙雲

 

ようやく巴蜀を手中に収め、描いていた天下三分の図を完成させた諸葛亮。しかし、関羽・張飛を立て続けに失い、部下の諫言を聞き入れずに夷陵の戦いで大敗を喫した劉備は衰弱していきます。死の間際、劉備は諸葛亮に次のように伝えたと言います。

 

馬謖に重要な仕事を任せるなと孔明に伝えて臨終を迎える劉備

 

「君は魏の曹丕(そうひ)なんかとは比べ物にならないくらいの天下を治める才がある。おそらく後世に残るような大事を成し遂げるだろう。もし、我が子・劉禅が皇帝として仕えるのに十分な人物であれば補佐してくれ。しかし、天下の器でないようなら、君が我が子に代わって国を治めてくれ。」

 

孔明

 

諸葛亮は目から涙をこぼし「蜀のために手足となって働きます」とだけ答えました。蜀の君主として君臨する気など毛頭無く、蜀の臣として蜀に尽くすことを固く誓ったのです。

 

 

 

死せる孔明、生ける仲達を走らす

劉禅と孔明

 

劉備の息子・劉禅は皇帝として即位したのですが、劉備を全体的に弱らせたような頼りない存在でした。遊び好きな劉禅は父の悲願であった漢王朝の再興などそれほど興味が無かったのでしょう。

 

 

孔明

 

 

 

一方、劉備の想いを受け継いでいる諸葛亮は北伐を決行します。このとき、諸葛亮は劉禅に「出師の表」を認めたのです。後世、これを読んで泣かない者はいないほどだと絶賛された銘文でした。しかし、数々の戦を勝利に導いてきた諸葛亮も、寄る年の波には勝てませんでした。五丈原の戦いの最中に病に伏します

 

 

病気になった孔明

 

 

 

当時魏に仕えていた司馬懿はその死を察知して蜀軍に攻め込みました。しかし、逃げ惑うかと思われた蜀軍は反撃の姿勢を見せたのです。これに驚いた司馬懿は、諸葛亮にまんまと騙されたと勘違いして狼狽えたのでした。この出来事がきっかけで「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉が生まれたのです。

 

三国志演義』では更なる活躍を見せる諸葛亮孔明。その奇才ぶりは数千年経っても色褪せることなく語り継がれるでしょう。

 

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