三国志で名前があがる派閥と言えば、益州閥、荊州閥、冀州閥等がありますがその中で兗州閥は、非常に地味な存在に留まっています。また兗州は序盤なかなか強力な人材がいたにも関わらず地元の群雄を立てる事が出来ず、豫州出身の曹操(そうそう)をTOPに立ててしまう無残な状態にもなっているのです。
私達は、当たり前に曹操と兗州を結び付けて考えますが、地縁血縁意識が強力な当時、どうして兗州人は曹操を担いだのでしょうか?そこには、呪われているとしか思えない兗州の事情がありました。
この記事の目次
呪われた兗州 初期にあらかたの群雄が戦死する
兗州は、陳留郡、東平郡、東郡、任城郡、泰山郡、済北郡、山陽郡、済陰郡の8郡で構成されています。黄河に面していて、いつ氾濫が起きるか分からない土地ですが、土地は肥沃で住民は災害に備え金銭を貯めるケチな習性がありますが、質素で小金持ちでした。ところが、黄巾賊が発生した冀州の真下に存在していた事で騒乱に巻き込まれます。
西暦190年に反董卓連合軍として挙兵した群雄の半数は実は兗州の関係者でした。しかし、それが兗州群雄のピークであり、そこからは呪われたかのように続々と群雄が戦死し始めます。
まず、東郡太守の喬瑁(きょうぼう)が劉岱(りゅうたい)に殺害されます。次に、兗州刺史の劉岱(前述とは別人)が青州黄巾賊と戦って戦死しました。済北相の鮑信(ほうしん)も黄巾賊との戦いで戦死し、山陽太守の袁遺(えんい)は弱者に滅法強いハイエナ袁術(えんじゅつ)に襲われ敗死。
豫州刺史の孔伷(こうちゅう:陳留郡の出身)はそれ以前に病死し、陳留太守の張邈(ちょうばく)、広陵太守の張超(ちょうちょう:東平郡出身)も陳宮(ちんきゅう)のクーデターに同調し曹操に叛いて滅ぼされます。こうして、かつて反董卓連合軍の過半を占めた兗州の群雄は五、六年でほとんど姿を消してしまったのです。
どうして、兗州人は曹操を主として仰いだのか?
では、どうして、兗州人は曹操を盟主として仰いだのでしょうか?
もちろん、陳宮や鮑信が熱心に兗州人に説いた事もあるでしょうが、それだけで、二流群雄の曹操を兗州人が担いだと考えるのも単純です。
兗州人が曹操を担いだ大きな理由、それは兗州人が融通が利かない、コチコチの法律万能主義者だったからです。元々兗州は戦乱で荒廃しやすく、無法地帯になりやすい地域でした。ですので、強力な法律で違反者を容赦なく処罰する人材が好まれたのです。法家の特性を持つ曹操は兗州人がTOPに置きやすい人材でした。
曹操は自ら率先して法を守り、破れば自らを処罰し「法を制して自らこれを犯さば、何をもって下を帥(ひき)いん」という名言を残しています。
法を絶対視し部下に温情が少ない于禁も兗州人
融通が利かない兗州人としては、于禁(うきん)が有名です。名将ですが、法律を重視する余りに、昔からの知人も見殺してしまうし味方から略奪を働いた青州黄巾賊も報復で撃破してしまいます。
于禁のそのような性格は、曹操の好む所でしたが、そういう潔癖さが禍し、西暦219年に樊城の戦いで関羽(かんう)に降伏しても、魏には彼を弁護する人はいませんでした。
法を振り回す兗州人は、人付き合いも悪く、特に酒を飲んで朗らかに人生や政治を語る豫州人とは合わなかったそうです。
陳宮がクーデターを起こしたのは曹操の浮気が原因
そうは言っても曹操は、一度、兗州人に手ひどく裏切られたじゃないか!
確かに、そのような意見もあります、曹操は194年に徐州に二度目に押し入った隙を突かれ陳宮に呂布(りょふ)を引き入れられて叛かれました。
しかし、これは曹操にも原因がありました、この頃から曹操は、豫州潁川郡の荀彧(じゅんいく)を重用し始めていました。そして兗州の人材を差し置き荀彧を徐州攻めの際の責任者にしたのです。陳宮は責任者から外されました、もう一人の兗州人程昱(ていいく)も荀彧の命令で東阿にポツンと置かれていました。
夏侯惇(かこうとん)は、荀彧に「君は州全体の抑え」と言っています。荀彧が曹操不在の兗州の責任者である事は疑いようがありません。荀彧には兗州取りまとめの手柄はなく、それは陳宮の手柄でしたがそれがまるで無視されたような形でした。陳宮は、曹操が兗州人から浮気して豫州人を登用し始めた事に立腹し張邈を焚きつけてクーデターに引き込みます。
「英雄たる貴方が曹操ごとき格下の風下に立つとは野暮の極み」何の事はなく、これは、新参の荀彧に地位を奪われた陳宮の嫉妬心をそのまま張邈に当てはめただけだったのです。
クーデターは失敗しましたが、陳宮の焦りは被害妄想ではなく、曹操は以後、荀彧を益々重用し、三国志世界のマドハンド荀彧はさらに、郭嘉(かくか)や鐘繇(しょうよう)、荀攸(じゅんゆう)を次々に曹操政権に引き入れていき、兗州人士は活躍の場を奪われてしまうのです。
覇道を決意した曹操のお陰で息を吹き返す兗州人
ところが、赤壁の大敗が、冷や飯を食っていた兗州人に再び光を当てます。自分一代での中華統一が不可能になった曹操は後漢王朝を簒奪して、魏を建国し、正当性を得ようと方針転換したのです。前述したとおり兗州人は法を万能として覇道を歓迎します。強い者が強力な法で天下を治めればいいのです。兗州人の董昭(とうしょう)が曹操を公に就任させようと暗躍を開始しますが、正統派の荀彧が時期尚早と反対します。
ところが今の曹操が求めているのは、荀彧の王道ではなく、董昭の覇道でした、194年とは逆に、今度は荀彧が遠ざけられて、謎の急死を遂げてしまうわけです。
三国志ライターkawausoの独り言
兗州人の性格は、法律万能のリアリストです。例えば、呂布に追われた劉備(りゅうび)が曹操を頼っても、郭嘉は「助けてやれ」と言い、程昱は「殺してしまえ」と逆の進言をしています。ドライで非情な決断が出来るのが兗州人であり、非情さやドライさは曹操の晩年により多く現れるのです。ここが最終的に兗州人が勝ち組に残った理由でしょうね。
▼こちらもどうぞ
権力に執着した曹操が魏王になるまでに荀彧と荀攸との間に亀裂が生じる