三国志はスポットが当たる武将と完全にぼやけている武将のコントラストが極端です。例えば、于禁が漢江の氾濫で自軍を沈没させてしまい、関羽の捕虜になった時、そこで、スポットが当たるのは、于禁と龐徳の2名だけです。
でも、実は于禁配下として捕虜になった魏将はあと2名いました。一人は副将の浩周でもう一人は南陽太守の東里袞です。今回は別に知らなくてもどうという事はない、浩周と東里袞を取り上げます。
この記事の目次
侯音の乱を引き起こした?悪太守東里袞
東里袞は生没年不詳ですが、関羽のフィナーレに関与している事で名が残ります。元々、南陽太守だった東里袞は218年、関羽が挙兵して北進を開始すると樊城に陣取る曹仁を援けて宛城に入り兵站を担う事になりました。
しかし、曹仁の税の徴収が過酷だったのか、東里袞の実績作りの為か、宛城の課税が重くなり、部下の侯音が衛開と共に3000名の兵と反乱を起こします。これに驚いた東里袞は功曹の応余と共に城外に脱出しました。
この反応を見ると、東里袞は悪太守ではなかったかも知れません。悪事を為している自覚があるなら、絶えず身辺を警戒しているものです。侯音が叛いたと聞いて、慌てふためいて応余と逃げるという事は反乱が寝耳に水だったせいでしょう。
単純に曹仁の要求する税が重いか、或いは最初から関羽と内通していた侯音と衛開の計画的な反乱なんでしょうか?
応余を殺され奮戦する東里袞だが侯音に捕まる
東里袞に逃げられた侯音は、逃がすかとばかりに追っ手を差し向けます。逃げきれないとみた応余は、踏みとどまって東里袞を庇い全身に矢を浴びて孫堅みたいな最期を迎えました。部下の死を見た東里袞は激怒し、猛然と逆襲を開始します。それにより、何と一度は侯音の追っ手を追い返したのです。東里袞は、自分を庇って死んだ応余を丁重に葬りましたが、完全に宛を掌握した侯音の追っ手により捕虜にされました。
宗子卿の計略により東里袞は釈放される
捕まってしまった東里袞ですが、応余の親友の宗子卿は東里袞を敬慕していて、何とか救いたいと考えていました。そこで、侯音と面会すると、
「東里袞は宛の人々の信望を得ているのにどうして捕えるのですか?これでは、あなたの義挙も無意味になってしまいますよ。それに、関羽より先に魏公(曹操)が宛に到着すれば、あなたは誅殺されます。怒りを和らげる為にも、東里袞は釈放すべきです」と説得します。
侯音はもっともだと思い、東里袞を釈放しました。解放された東里袞は親友である揚州刺史の温恢を頼り、やがて軍勢を得て宛に引き返してきました。ここで宗子卿も居心地が悪くなり、宛城を脱走、二人は共同で宛城を包囲する事になります。
曹仁の援軍で侯音の反乱を鎮圧するが今度は関羽の捕虜に・・
関羽を迎え討っていた曹仁ですが、宛城の反乱を重く見て、龐徳と共に援軍に駆け付けます。これに力を得た東里袞は包囲を厳しくして攻めまくり、侯音は関羽の援軍を待てずに降伏しました。
東里袞は、侯音とそれに内通した市民を捕えて処刑しましたが、人々は「侯音公万歳」を叫び東里袞には呪いの言葉を投げつけて死んで行ったそうです。こうしてみると、侯音の反乱は関羽の扇動ばかりではなく重税に苦しむ住民の支持を受けたもので、やはり、曹仁の軍務や税の徴収が過酷だったのでしょう。こうして、宛を解放した東里袞ですが、そのまま曹仁軍に吸収され龐徳と共に、于禁の七軍に配属されます。
于禁の副将、浩周
于禁の護軍には、もう一人の主人公、浩周がいました。浩周は字を孔異と言い建安年間に出仕して蕭令になり次第に累進して徐州刺史になり、現在は于禁の七軍の護軍でした。曹仁の援軍として来た于禁ですが長雨で漢江が氾濫すると船を持たない于禁の軍勢は水没、関羽軍に降伏し降伏を拒否して処刑された龐徳を除き于禁、浩周、東里袞は捕虜になったのです。
あの歴史的なドラマの現場で、特に関羽になんとも言われず、ぼーっと佇んでいた二人を考えるとなんだか面白いですね。
関羽の死後、孫権の捕虜になった3人・・
関羽は、于禁、浩周、東里袞の3名を殺す事なく捕虜にします。しかし、そんな関羽も、魏蜀の秘密同盟には気づかず、士仁と麋芳を呂蒙によって寝返りさせられ、江陵と公安を奪われます。関羽は樊城と襄陽の包囲を解かざるを得なくなり、まもなく敗北して捕えられ首を切られてしまいました。
3名はこうして、関羽から解放され孫呉の手に落ちます。ただ、間もなく魏では曹操が没し禅譲騒ぎでゴタゴタしている事もあり送還は見合され遅れる事になりました。孫権は、3名を丁重に扱いましたが、于禁は無傷で降伏した角で虞翻などに罵倒されたりしています。後りの2名については、そういう事があったか分かりません。
魏に帰還して憤死した于禁と曹丕に呼ばれた二人
曹丕が即位すると、3人は魏に送還されました。于禁は曹丕に長年の労苦を労われた上で曹操の墓に参拝する事を勧められます。しかし、これは曹丕の罠で、廟のレリーフに関羽に土下座する自分の姿を見つけた于禁は怒りと恥ずかしさと屈辱で病気になり死んでしまいます。
一方の二人は、曹丕の御前に出される事になります。理由は「孫権は本当に魏に臣従するつもりがあるか?」聞くためでした。しばらく呉で過ごした二人なら見当つくだろうと考えたのです。曹丕の下問対して浩周は「孫権には本気で魏に臣従するつもりがあります」と解答。逆に東里袞は「あの酒乱ヒゲが臣従?ないない!騙されちゃいけません」と答えます。
どうやら、呉に関する感想が浩周と東里袞では180℃違ったようです。曹丕は浩周の口ぶりに信憑性があると考え、浩周に対して「じゃあ、お前、呉に行って息子を人質に寄こすように言ってこい」と命じ、浩周は呉に送られる事になりました。
浩周は孫権に振り回される
西暦222年浩周は孫権を呉王に封じる使者として呉に到着し、孫権の後継者である長男の孫登を洛陽に入朝させるように命じます。儀式の後に、孫権は酒宴を催して浩周をもてなしました。
浩周「実は陛下は、呉王が王子を入朝させる事を信じておりませんしかし、私は王を信じておりますから、我が一門百名の命を懸けましたどうか王よ、私の誠意を容れられよ」それを聞いた孫権は、酒が入っているせいか、感激して胸襟を開き
孫権「浩孔異よ!どうも有難う!赤の他人の余の為に自らの一門の命を懸けて保証してくれるとは・・もう、何も言えねえ、、言えるわけがねえ!」
こうして、孫権は浩周と抱き合い涙を流しました。帰り際にも、互いに天を指さして誓い合っています。浩周は真心は必ず通じるものだとホクホクしたでしょう。ところが、孫権が呉王に封じられた事に感謝する謝恩使は、孫登を連れず、魏にやってきたのです。孫権は酔いが覚めて気が変わったのでした。
曹丕「・・・おい、、孫権の息子はどうした?」
使者「は?何の事で御座いましょう」
浩周から万事上手く行ったと報告を受けていた曹丕は、しばらく使者を引き留め様子を見ますが、幾ら待っても呉から孫登がやってくる様子はありませんでした。
孫権から手紙が来て今度こそ・・
夏になると、孫権から親書が届きます。それには曹丕宛てに前回の無礼を詫びた手紙と浩周に宛てた手紙がありました。その浩周の手紙には以下のようにありました。
「国交を結ぶ事が出来たのを嬉しく思います。
貴国とは色々ありましたが、終り善ければ全て善しですな
息子の孫登の件なのですが、あの後、色々考えた結果なのですが
我が子は幼く遠くに遣るのは不安なので、もう数年待ってもらえませんか?
この事は宮廷にも伝えたのですが、まだ理解してもらえないので
あなたからもどうか口添えして下さい
また、我が子にはまだ配偶者がおりません。
可能であれば貴国と縁組したいのですが、いかがでしょう?
それが叶うなら、孫長緒(孫邵)を教育係として送り出します。
これが成るかどうかは、あなた次第なので、宜しくお願いしたい
しかし、やはり幼い我が子では教育面でも不安です。
ですので、教育係として張子布(張昭)もつけようかと考えています」
この手紙を浩周が曹丕に見せると
「この媚びっぷりは、孫権めが独力で江東を抑える自信がない表われ孫登を寄こし我が国と通婚して股肱の臣を送るのは異心がない証拠だろう」
と満悦し、浩周も「陛下の仰せの通りです」と答えました。
ですが、この手紙も孫権の出鱈目でした、やはりいつまで待っても孫登も、張紹も孫邵も来る事はなく、いつの間にか呉は蜀と同盟を結び魏から離れてしまったのです。
以来、曹丕は浩周を疎んじて重く用いなくなりました。いや、確かに浩周はお人よしだけど、曹丕も騙されてません?全て浩周のせいにするのもどうかと思いますけど・・
三国志ライターkawausoの独り言
結局、孫権の不誠実を見抜いていたのは東里袞でした。しかし、それで曹丕が見直して重用したという事はないそうです。遠ざけられた浩周が、その後どうなったかも不明です。かなり対照的な二人ですが、どちらもそこまでの人材では無かったと言うと少々酷な評価になりますか・・面白いのは、関羽に降伏した于禁と龐徳という三国志の名場面ではほぼ出番がない二人が、その後の魏に呉が臣従するという場面で主役級の役割を果たしながら、どこまでも地味という点です。
蜀から呉に行って再び同盟を結んだ鄧芝なんかは、そこそこ知名度があるんですけどね・・やはり、その武将が背負った華の無さなんでしょうか?
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