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斬首命令を受けた八健将![呂布に仕えた侯成の運命とは?]

2024年10月8日


 

三国志界の無双の豪傑である呂布(りょふ)には、その配下に八健将という八人の将がいました。八健将の構成員は、張遼(ちょうりょう)、臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)曹性(そうせい)、成廉(せいれん)魏続(ぎぞく)宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)です。これらの八人の武将は序列が一位から八位まで決められています。

 

 

最下位が侯成(こうせい)という武将です。八人の中で最下位というと比較的ダメな将なのか、と考えてしまいます。侯成(こうせい)とは実際にはどんな将だったのでしょうか。今回は八健将の序列最下位侯成(こうせい)について正史と演義の両方から紹介し、なぜ彼が序列最下位なのかを考察致します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史:侯成の生きた時代

 

侯成(こうせい)は、正史に記録はありますが、字が不明であり、出身地や生没年も分かっていません。彼に関する記録は、劉備(りゅうび)が小沛にいる時から始まります。そこにたどり着くまでの経緯としては、主である呂布(りょふ)が董卓(とうたく)を討った後、曹操(そうそう)と一悶着(濮陽の戦い)があり、その後流軍して彷徨っているところで当時徐州にいた劉備(りゅうび)に迎えられたという経緯となります。

 

 

正史:盗られた馬を奪い返す

 

ある時、侯成(こうせい)は、自身の食客に馬十五頭を飼育するように命じました。ところがその食客が侯成(こうせい)の馬を全て奪い、小沛の劉備(りゅうび)の元へ逃げ出しました。手土産を持って、劉備(りゅうび)の陣営に入れてもらおうという目論見です。侯成(こうせい)は騎兵を率いて食客を追撃し、馬を奪い返しました。そのことを聞いた同僚の将達から賞賛と祝賀を受けました。

 

 

正史:お酒を猪料理で返礼

 

侯成(こうせい)はその返礼として、五・六斛の酒をかもし、十頭余りの猪を狩り、猪料理を作りました。さらに、返礼する前に、五等分の猪肉と五斗の酒を携えて、主君である呂布(りょふ)の御前に参上しました。侯成(こうせい)「今回、将軍のおかげで奪われた馬を取り返すことができました。諸将が祝いに来てくれましたので酒をかもし、猪を狩りました。まずは感謝の気持ちを申しあげます。」と述べましたが、これに対して呂布は激怒します。

 

呂布(りょふ)「オレは今禁酒令を出している最中のはずなのに酒をかもしただと!

諸将と飲み食いして兄弟の契りをむすんだ上で、オレを殺そうというのか!?」

 

この怒号に侯成(こうせい)はビビって退出しました。かもした酒や用意した料理は全て捨て、諸将から受け取った贈り物も返還しました。それ以来、疑心暗鬼にとらわれるようになりました。

 

 

正史:呂布の最後

 

呂布(りょふ)と曹操(そうそう)は長きに渡って戦い、遂に呂布(りょふ)は下邳城に追い詰められました。三ヶ月程で、下邳城内の兵の心は皆ばらばらになっていました。

 

曹操に捕らわれる高順、呂布、陳宮

 

侯成(こうせい)は、共に呂布(りょふ)に仕えていた宋憲(そうけん)・魏続(ぎぞく)らと共謀し、呂布(りょふ)軍の参謀の陳宮(ちんきゅう)と忠臣である将の高順を捕縛し、彼らを手土産に配下の兵士とともに曹操(そうそう)に投降しました。そして、呂布(りょふ)をはじめ陳宮(ちんきゅう)高順(こうじゅん)らは処刑されました。

 

 

演義:濮陽の戦いでの侯成の活躍・・・

 

三国志演義で初めて侯成(こうせい)が登場したのが、呂布(りょふ)と曹操(そうそう)の戦いである濮陽の戦いです。この戦いで八健将はそれなりに活躍しますが、曹操(そうそう)の配下の豪傑、悪来 典韋(あくらい てんい)に阻まれます。

 

ある時、曹操(そうそう)は濮陽城内に豪族・田氏(でんし)と内通して城を取ろうと画策しました。呂布(りょふ)軍の参謀、陳宮(ちんきゅう)は、それを逆手にとって曹操(そうそう)を城内に誘い込みます。この時、八健将達が曹操(そうそう)を襲いますが、曹操(そうそう)の配下の将らによって攻めきれませんでした。侯成(こうせい)もこの時、典韋(てんい)によって阻まれています。八健将であることから、実力者であると考えられる侯成(こうせい)も典韋(てんい)には敵わないようです。

 

 

演義:侯成の居ぬ間に敗北

 

その後、休戦を経て開戦し、曹操(そうそう)軍と呂布(りょふ)軍の戦いが続きます。しかし、呂布(りょふ)軍は配下の諸将を欠いた不利な戦いであり敗北してしまいます。さらに、濮陽城の田氏(でんし)が裏切り、城から追い出されてしまいました。臧覇(ぞうは)と張遼(ちょうりょう)、侯成(こうせい)は、遠くの海岸地方まで兵糧調達に出ていて不在でした。八健将が遠方へ出てしまうと、呂布(りょふ)も戦いにくいのでしょうか。

 

 

演義:追い詰められる呂布

 

呂布(りょふ)はその後も曹操(そうそう)と戦い続けましたが、部下の裏切りによって敗走し、正史同様に下邳城に逃げ込みました。曹操(そうそう)、劉備(りゅうび)らは、呂布(りょふ)が逃げ込んだ城を囲みます。そのまま、籠城を決め込んだ呂布(りょふ)でしたが、事態は好転する兆しは無く、袁術(えんじゅつ)に助力を頼もうとしましたが、これまでの行いの為か助けに来るようすはありませんでした。そうした状況に呂布(りょふ)は苛立ちを感じます。

 

 

演義:侯成、呂布の怒りを買う

 

ある日呂布(りょふ)は断酒を決意し、禁酒令を出しました。その頃、侯成(こうせい)は馬の世話をしていたが、厩の小者に盗まれた馬を取り戻すことができ、祝賀の酒を呂布(りょふ)に献上したところが、呂布(りょふ)の怒りを買い斬首の命を受けました。この時、宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)が許しを請い、棒叩き50回で済みました。妻子のことばかり考えている呂布(りょふ)を恨み、侯成(こうせい)、宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)らは裏切りを決意しました。

 

 

演義:裏切り決行!

 

 

曹操(そうそう)は彼らの合図で城内に攻め込み呂布(りょふ)は応戦したが、夜明けから昼間まで戦って曹操(そうそう)軍が退き眠った隙に宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)に縛られてしまいました。曹操(そうそう)に捕えられた呂布(りょふ)と部下は斬首されました。侯成(こうせい)は魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)とともに曹操(そうそう)の軍門に入ります。その後、演義では侯成(こうせい)に関する記述は現われません。

 

 

結局なぜ序列最下位?

 

侯成(こうせい)は、八健将の中でなぜ序列が最下位なのでしょうか。私FMは以下のように考えています。呂布(りょふ)は、こう言っては失礼ですが、三国志界では裏切りの代表格の一人であると考えられます。他者を裏切っていた呂布(りょふ)は、部下からの裏切りにあい下邳の城に追い詰められ、その最後に侯成(こうせい)から裏切られ破滅しました。

 

三国志演義の作家 羅貫中

 

こうした正史での結末を知った上で、三国志演義を著した羅貫中(らかんちゅう)は、八健将というものをつくり、その配下の一人として侯成(こうせい)を加えました。

 

敵を相手にして奮闘する張遼

 

物語としての三国志演義を映えさせるには、張遼(ちょうりょう)のような後に曹操(そうそう)の元で活躍するものは序列を一位にしなければなりません。逆に侯成(こうせい)のような後の記述が少ないものは序列を下げると考えられます。そして、特に侯成(こうせい)は呂布(りょふ)にトドメを指す、というポジションなのでそんな人物は高い序列にいるよりも低い序列が良いと判断したのではないかと思います。

 

 

三国志ライターFMの独り言

 

侯成(こうせい)は、返礼の際にも、主に話を通しまた酒料理を献上する等、きちんとした将であったようです。呂布(りょふ)は、他の配下の扱いもひどく、忠臣である高順(こうじゅん)も何故かよく思っていなかった様子です。こうした点、侯成(こうせい)が裏切ったのは呂布(りょふ)の責任ではないかと思います。ちなみに演義と正史では、ほとんど同じエピソードとなっていますが、演義の侯成(こうせい)は怒られた上に、棒で50回も叩かれていて、なおさら悲惨になっています。

 

参考:

魏書呂布伝

後漢書呂布伝

武帝紀

 

 

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