三国時代は現代と同じように好きな組織(君主)を選んで、仕える事ができました。
魏延は荊州にいた劉備を気に入り、彼へ仕えて出世を果たします。さて魏延が選択した劉備の性格は、正史三国志の作者・陳寿によると「人に親切で意志の強い人物」と評価しています。
では魏延が仕えなかった孫権は、どんな性格をしていたのでしょうか。
孫権の風貌とは?
性格は顔に出るとよく言います。そこでまず孫権の容姿や顔つきから、性格を探ってみたいと思います。孫権は「江表伝」によると生まれた当初、顎が張って口が大きく、瞳がキラキラしていました。
孫権の父・孫堅は「高貴な位に上る相だ」と言って、喜んでいたそうです。この予想は的中。孫権は後年、呉の皇帝になり、中国で一番高貴な位になりますが、孫権の容姿だけではちょっと性格まで分かりませんので、次は他者からの評価から探ってみたいと思います。
兄・孫策の孫権評から調査
孫堅の長男・孫策。
彼は孫堅死後、弟・孫権を連れて袁術を頼りますが、袁術の頼りなさに呆れ、袁術の元を離れ、少ない兵士を率いて、江東平定へ出陣。
孫策は優れた戦術と家臣を用いて、江東平定をとてつもない速さで行います。
孫策は江東平定に成功しますが、長く生きることができず、豪族に暗殺されてしまいます。孫策は死ぬ間際、弟・孫権へ「俺は兵を率いて群雄と雌雄を決する点では俺の方が優れている。しかし賢臣を用いて領土を保全する力において、俺は君に及ばない」と評価。
このことから孫権が守勢において、力を発揮する人物だったことが分かります。
感情を表に出してしまう孫権
張昭と孫権のやり取りが、彼の性格を考える上で参考になるので紹介しましょう。孫権は孫策の頃から仕える重鎮・張昭とたびたび激論を交わしていました。
例えば孫権が虎狩りを行っていた際、張昭が厳しく注意したり、礼を逸した酒宴に対して強い言葉で諫めます。すると孫権は張昭へ宮中に出入りすることを禁止。
また遼東を領有していた公孫淵が孫権へ臣従したいと申し込んできます。孫権は公孫淵の臣従を喜んで彼を燕王にするため、使者を派遣しようとしますが、張昭が大反対。
しかし孫権は張昭の反対を無視して、公孫淵へ使者を派遣してしまいます。
張昭は孫権が自分のアドバイスを受け入れなかったため、激怒し仮病を使って、家に引きこもってしまうのでした。
孫権は張昭が仮病を使って家にこっていることを知り、張昭の家の門を土で固めて、外へ出ないようにしてしまいます。張昭は家の門を土で固められると内側から土で固め、二度と外に出ない意思を示します。その後孫権が派遣した使者達が公孫淵に殺害されたこと知り、張昭の発言が正しかったと謝罪。
だが張昭は孫権が謝罪しても出仕することなく、家に閉じ籠ったままでした。
そのため孫権は激怒し、わざわざ張昭の家まで馬車に乗って放火。張昭の家は燃え盛りますが、張昭は放火されても外に出ないで家に閉じこもっていました。そのため張昭の息子逹は、無理やり張昭を家から脱出させます。孫権は張昭と息子達が外へ出たのを発見するとすぐに、自分の馬車へ連れ込み、張昭へ頭を下げて謝罪したことで、なんとかわだかまりを解消。
このように孫権は張昭とバチバチにやりあっていますが、怒りを表に出してしまう性格の君主です。でも孫権は自分に非があった時は、ちゃんと素直に謝る君主でした。
家臣を心配する優しい性格
孫権は欠点もある性格ですが、いい部分も多い性格でした。
例えば呉の呂蒙が病にかかったとき、彼を心配して病室へお見舞いに行こうと考えます。だが孫権は自分がお見舞いに行くことで、呂蒙に気遣いをさせてしまう可能性があることを考え、彼の部屋に穴を開けて、病状を確認していました。
更に孫権は呂蒙のために薬を届けたり、祈祷をさせて病気平癒願ったり、彼の病が治るために色々な事を実行。だが孫権の甲斐甲斐しい看護や祈りも通じず、呂蒙は亡くなってしまいます。孫権は呂蒙が亡くなった際、大きな悲しみとショックを受けて、食事をほとんど取ることができなくなってしまいます。
他にも孫権は凌統が亡くなった時も大いに悲しみ、周泰の傷を諸将へ涙ながらに説明したり、家臣を家族のように大切に思っていた優しい性格の持ち主でした。
三国志ライター黒田レン
今回は魏延が仕えなかった孫権の性格について紹介しました。正史三国志の作者・陳寿は「身を低くして恥をしのび、才能あるものに仕事を任せ、綿密に計画を練るなど万人に優れ、傑出した人物だった」と高い評価を孫権へ与えています。
このことから孫権は性格的には喜怒哀楽をはっきり示してしまう君主でしたが、三国時代においてはまさしく英雄の一人として数えることができた人物だったと思います。
■参考文献 正史三国志呉書など
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