三国志演義では、蜀を代表する強い将軍として知られる五虎(ごこ)大将軍。
関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)、黄忠(こうちゅう)、馬超(ばちょう)の五名が当っていますが、一見すると対等に見える、五虎将軍には、実は階級の差があったという事を、あなたは、ご存じでしょうか?
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蜀の五虎大将軍で断トツに待遇が悪い男 趙雲
蜀の五虎大将軍は、三国志の時代に存在した称号ではありません。正史三国志蜀書大六巻に、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超がひとまとめに紹介されている事から、三国志演義のライター達が、一括りに五虎大将軍と言い出したのが始まりのようです。
しかし、それは、そうとしても、一つの巻にまとめられるのは、その巻に収録されている人物が大体同レベルの活躍をしたから、と考えて間違いありません。ところが、手柄を立てているにも関わらず、五虎大将軍で、ダントツに待遇が悪く出世と縁がない人物がいました趙雲です。
五虎将軍で一番位が低い趙雲
趙雲の活躍といえば、長坂で妻子を放り出した劉備(りゅうび)に代わり、甘(かん)夫人と劉禅(りゅうぜん)を守った功績や、定軍山において空城の計を行い曹操(そうそう)軍を撃退した事、北伐の敗北でも崩れず、よく物資を守って、孔明(こうめい)に賞賛されるなど、一つや二つではなく、関羽や張飛にも決して引けを取るものではありません。
ところが、西暦219年、劉備が漢中王に即位した時、張飛が右将軍(三品)関羽が前将軍(三品)黄忠が後将軍(三品)、馬超が左将軍(三品)に任命された時でも、趙雲は翊軍(よくぐん)将軍という雑号の将軍位で据え置きされています。
つまり、趙雲は、関羽、張飛はおろか、黄忠や馬超さらには魏延(ぎえん)にまで、地位では引き離されてしまっていたのです。
趙雲は無能な五虎将軍だったのか?
器量の大きい人物と言われ、褒美の出し惜しみやエコひいきがない、劉備が意図的に趙雲を出世させなかったとは思えません。ましてや、劉備は趙雲を信頼する事厚く、自分の家族の護衛まで任せているという程でした。そうして考えると、結論は一つです、つまり劉備の評価は妥当で、趙雲は、他の五虎将軍より活躍していないのです。
趙雲の活躍はかなり盛られていた?趙雲別伝
趙雲無能説を裏付ける史料は実はあります。裴松之(はいしょうし)が陳寿の三国志を補強する時に使用した趙雲別伝の記述です。
趙雲別伝を除くと正史三国志における趙雲の伝は至ってシンプルです、下にまとめてあるのをあげてみましょう。
趙雲は字を子龍といい、常山真定県の人、最初、公孫瓚の配下で後には劉備の主騎(親衛隊)として仕えた。
長坂の戦いの当時、趙雲は乱軍の中から劉禅と甘夫人を救出した。劉備が劉璋を攻撃中、彼と趙飛は諸葛亮に率いられて西上、所在の郡県を平定した。
西暦223年、劉禅が即位すると征南将軍に昇進、永昌侯に封じられ後に鎮東将軍に異動した。
西暦228年、祁山(きざん)に向かう諸葛亮の囮になって趙雲は曹真の軍と戦いこれに箕谷(きこく)で破れたが、よく敗兵をまとめて固守、大敗には至らなかった、帰還後に鎮軍将軍に降格させられた。西暦229年に亡くなり、261年には順平侯と追諡。
まあ、趙雲と言えば、確かに趙雲ですが、何と言うか、ぼんやりしていて、趙雲の特徴が出ていません、そうリアルタイムにより近い、正史の趙雲は、さっぱりした記述しか無かったのです。
五虎将軍、趙雲は無能!でもちょっと待って?
「なーんだ、趙雲のイメージは、趙雲別伝によって、造られたものなのか。見劣りがする手柄しかないんじゃあ、関羽や張飛、黄忠、馬超に較べてランクが低いのもうなづける・・」
と決めつけて、早速、趙雲無能説をツイッターでつぶやこうと考えた皆さんちょっと結論が早いですよ。実は、趙雲は手柄がないのではなく、手柄を立てる所に居なかったという可能性もあるのです。
趙雲と許褚(きょちょ)に共通する大切な人を守る立場の苦悩
正史にも書かれていますが、趙雲は劉備の配下になった時に主騎になります。これは、劉備とその家族を守る親衛隊で近衛兵です。日本で言えば、旗本ですが、彼等は何を犠牲にしても主君とその家族を守るという使命を背負っています。
手柄が立てられそうだからと、おいそれと持ち場を離れられないのです。
同じケースは、何度も窮地から曹操の生命を救った許褚にも言えます。曹操は、何度か許褚のお陰で生命を永らえていますが、そんな許褚の位は最高でも武衛(ぶえい)将軍で四品官に過ぎません。
二品官の鎮東(ちんとう)将軍まで昇進した趙雲よりも出世していないのです。これは、許褚が、ずっと曹操に張り付いて、守り続けていたからでした。
位は低くても、主君を守る名誉に生きた趙雲
趙雲は、合戦で死地を切り開き、華々しい活躍を遂げるよりも、劉備や、その家族を守る事に生きがいを見出した武将でした。地位や名誉など、趙雲には大した意味はなく、同僚が出世してもそれを羨む事もなかったのです。
だからこそ、陳寿は活躍では残りの五虎将軍に及ばない、趙雲を一つの伝にまとめたのではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
西暦223年、劉備が崩じて、劉禅が即位すると、趙雲は長年、据え置かれた雑号将軍から、突如、征南将軍、中護軍、永昌亭侯に封じられます。いきなり、関羽や張飛、黄忠や馬超に並ぶ二品官になったのです。
この人事が、劉禅の意志か孔明の意志かは分かりません。ですが、長年、裏方で頑張っていた趙雲に対する感謝の気持ちが、こもった人事のような気がします。本日も三国志の話題をご馳走様でした。