潼関の戦いとは、西暦211年に発生した関中軍閥と曹操との戦いです。両軍とも10万以上の軍勢を繰り出した規模が大きな会戦であり、曹操も反乱を平定するのにかなりの苦戦をしました。
しかし、この戦い、史書の書き方のせいか幾人もの武将が入り乱れ、なんとも内容が分かりにくくなっているのです。そこで、はじめての三国志、9月の潼関の戦いスペシャルでは、潼関の戦いの経緯と、目的と原因を簡単に説明致します。
潼関の戦い原因
潼関の戦いの原因は、馬超をボスとする関中軍閥がその独立性を曹操に奪われる事を怖れた事によります。西暦192年、長安を陥れた李傕や郭汜は物資が足りなくなると長安周辺で大規模な略奪を行い、住民の大半は漢中や益州に逃げていきます。当時、益州には劉焉が、漢中には張魯がいて流民を吸収する事で勢力を拡大しますが関中と呼ばれた地域にいた軍閥達も、流民を取り込んで強大化しました。
一方で関中軍閥は曹操と組む事で自立を維持していましたが、その曹操が自分の支配に服さない漢中の張魯を討伐しようとします。実は関中軍閥と張魯は親密な関係にあると言われ、張魯が曹操に下る事になるとこれまでの緊密な関係がバレ、曹操の猜疑心が自分達にも向かう事を馬超等は危惧し、異民族の軍勢も巻き込んで蜂起したのです。
潼関の戦い関中軍閥の目的
では、反乱を起こした馬超等、関中軍閥の目的は何でしょう?曹操を滅ぼして中華統一を狙ったのでしょうか・・いえ、彼らの目的はもっと小さいものでした。それは、潼関の戦いが膠着状態になった時の和睦の条件に出ています。
”黄河の西の領土を割譲して自分達に保障せよ、叛かない誓いとして人質を送り届けよう”
つまり潼関より西、長安を含めた土地を今まで通り、自分達軍閥に治めさせ干渉しないでくれというものです。もちろん、統一国家を志向する曹操が自分の命令に服さない土地を認めるわけもなく、彼らの願いは却下される事になります。
潼関の戦い経緯
潼関の戦いを理解する上で大事なのは3回あった黄河の渡河(星印)です。曹操軍は、馬超と韓遂の連合軍を破る為に、狭い潼関ではなく、黄河を超えて西に向かう必要がありました。
※地図は大雑把です
また、曹操軍は兵糧の補給を遠く河東郡に頼っており食糧に余裕がない状態です。渡河に手こずると退却するしかなく、再び戻ってくる間に関中軍閥が、どれほど増加するか見当もつかない状態にありました。そこで、曹操は徐晃と朱霊を密かに渡河させて、蒲阪津を西に越え、梁興を破り、そこに拠点を造ります。
次に曹操が全軍を率いて、潼関から北に黄河を越えようとしますが船が岸を離れる前に馬超の攻撃を受けて危機に陥ります。この時、丁斐は牛馬を放って馬超軍の意識を曹操から逸らし、許褚は船に取り縋る兵を斬り、船頭が死ぬと自ら船を漕ぎ、馬の鞍を盾代わりにして曹操を守り、とうとう曹操を渡河させます。
騎兵の突撃に懲りた曹操は、ここから兵車を横倒しにして左右に木柵を設けて補強した甬道を(黄色点線)つくりながら、蒲阪津を越え、そのまま南下して渭水のほとりまで到着します。甬道は敵騎兵の攻撃を防ぎ、補給路を確保する方法として非常に役に立ちました。
渭水を渡った辺りで曹操軍に背後を取られた馬超は、和睦を持ちかけてきますが、曹操は受け入れたふりをして履行はせず、韓遂と馬超の仲を裂いて関中軍閥を崩壊させます。最後の戦いでは、曹操は軽装兵で関中軍を相手にしつつ、途中で騎兵を投入して関中軍を挟撃して大破し成宜、李堪を斬りついに馬超と韓遂は西涼に敗走しました。
三国志ライターkawausoの独り言
潼関の戦いで関中を直轄支配に組み込んだ曹操は後に起きる蜀との北伐戦を有利にしたと言えるでしょう。長安には夏侯淵が駐屯し、引き続き西に睨みを効かせますが馬超が再起に失敗すると、そこまで大きな反乱は起きなくなります。もし、関中軍閥が温存されていたら、諸葛亮の北伐は起きる度に魏に大変な脅威を与える事になったと思います。
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