西暦211年に発生した潼関の戦い、特に馬超と韓遂が有名ですが、実際には彼らに呼応した軍閥、関中十部がいたからこそ出来た反乱です。銘々が1万の騎兵を率い集合すると10万に達したという大規模な会戦。それが潼関の戦いだったのです。今回は、あまりスポットライトがあたらない関中十部について解説しましょう。
この記事の目次
関中十部とは具体的に誰?
関中十部とは、蜀志馬超伝に引く典略に登場する人々で、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋、韓遂が記録されます。正確には九名なので凡そ十部とされています。潼関の戦いが起きると、彼らは軍勢を率いて黄河のほとりの潼水に至り陣営を立て連ねました。それぞれが1万人の騎兵を率いていたようで、全体では10万人規模です。
三国志演義では、韓遂を除く八名が馬超の配下のような描かれ方ですが正史三国志には、双方に主従関係があるような描写はありません。ただ、馬超等は韓遂を(不在時に)都督(総大将)としたという記述がある事から全体を統括する名目上のボスは韓遂だったようです。
元々、関中は面積の割に、人口希薄だったようですが、李傕と郭汜が長安で献帝を擁して人口が多い長安周辺の三輔を荒らしまわり暮らせなくなった住民が、彼ら関中軍閥のテリトリーに流れ込んで行き次第に強大になっていきました。
また、関中十部は漢中の張魯とも密接な関係を持っていました。これは、馬超が蜂起に失敗すると張魯を頼っている事からも明らかです。一人馬超ばかりではなく、下段で紹介する程銀や侯選も潼関の戦いに敗れると漢中に逃げ張魯が降伏した所で曹操に下っています。
肥沃な穀倉地帯河東郡の軍閥 侯選、程銀、李堪
関中軍閥の3名、侯選、程銀、李堪は、魏志張魯伝によると河東郡の出身者です。この河東は曹操が支配する前に袁紹の影響下にあり、黒山賊も存在しました。また袁紹の死後も、并州刺史の高幹に呼応して叛いた衛固や范先という軍閥がいました。
河東郡は穀倉地帯として知られ、潼関の戦いでは10万以上と言われる曹操軍の兵糧の全ては、河東郡から輸送されていました。3名の中で、李堪は潼関の戦いで敗れて敗走する時に斬られて死亡侯選と程銀は、漢中に逃げ込み、その後、張魯が曹操に降伏すると、共に降伏して爵位を与えられています。
最後まで頑張ったで賞 梁興
梁興の出身地は不明です、潼関の戦いでは5000の騎兵を率い、曹操軍の黄河渡河を阻止する役割を与えられていましたが、結局、徐晃と朱霊の渡河を許し拠点を造られてしまいます。
しかし、潼関の敗戦後、十部が次々と敗走する中で一人だけ三輔に留まり各県を荒らしまわり、誰も手が出せずに役所に避難する有様だったようです。
ですが、左馮翔の鄭渾は、防衛に回らず住民を組織して自警団をつくり賊でも投降者は優遇し、同時に賊に懸賞金をかけて捕らえる事を奨励したので欲の対象になった梁興は狙われる立場になり、略奪もうまくいかず鄜城に籠った所を夏侯淵の討伐軍に破れ斬られました。付和雷同の烏合の衆が多い、関中十部の中では、一番強硬に曹操に抵抗した人なので頑張ったで賞を与えたいです。
韓遂、馬超に次ぐ実力者 成宜
成宜の出身地も不詳ですが、史書では、馬超、韓遂に次いで名前が登場し、別の場面では、楊秋、李堪と共に名前が出る事から№3の実力者であったようです。しかし、それが災いしてか曹操には許されず、潼関の戦いに敗北して李堪と共に戦死しました。
曹操から爆笑取ったで賞 楊秋
楊秋も出身地は不詳ですが、部下に雍州天水郡の人がいるのでもしかすると、その辺りの人かも知れません。この楊秋は、よく言えば時勢が見える人、悪く言えば生臭い人物で、建安年間から度々曹操の下に部下の孔林を派遣していました。
孔林は曹操の機嫌を見て細かい進言をし、気に入られて騎都尉になり、そのお陰で楊秋も曹操に知られてはいたようです。
潼関の戦いに敗北した楊秋は、当初逃亡しますがとても逃げきれないと覚悟し安定で降伏します。この時に楊秋は立場を有利にしようと小賢しくも、「私は最初から降伏するつもりだったので、涼州までは逃げず安定に留まったのです」と五十歩百歩な言い訳をしました。
しかし、曹操に「降伏するつもりならどうして逃げようとした?」と突っ込まれ返答に困った楊秋は「それは、その、付き合いで・・」と珍回答。曹操はそれを聞いて、大爆笑し降伏を許したという逸話があります。楊秋はその後も抜け目なく立ち回り、曹魏が建国されると、反乱鎮圧などに功績を挙げ、征羌護軍を兼ねた郭淮の配下として張郃共々名前を連ねたそうです。
どうなったか分からないで賞 馬玩、張横
馬玩と張横は出身地も生没年もまるで分からない人物です。潼関の戦いに参加した軍閥の一人ですが、その後どうなったかも不明、馬玩についても、馬姓なので馬超と同族かというとそんな記述はありません。元々、二人とも大した勢力ではなく史書に記す必要もない小者だったという事かも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
以上、あまり目立たない関中十部について書いてみました。総合では、八人中、曹操に降伏したのが、程銀、侯選、楊秋3名敗北して斬られたのが、李堪、成宜、梁興、3名。どうなったのか消息不明なのが、馬玩と張横の2名でした。離合集散が常で弱肉強食な関中軍閥らしく、身の振り方が均等にばらけているのも面白いですね。
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