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吉川三国志も脱帽?関羽漢寿亭侯任命の裏に隠された[曹操の策略]

2024年4月14日


 

顔良と関羽

 

曹操(そうそう)は歴史マニアで霊帝(れいてい)の前で講義を許される程でした。そんな曹操、一時、関羽(かんう)を配下にしていて白馬延津(はくばえんしん)の戦いで顔良(がんりょう)を斬った関羽の手柄を讃えて漢寿亭侯(かんじゅていこう)の印を与えた事があります。

 

関羽

 

こちらの話は古いタイプの三国志演義である李卓吾(りたくご)本やそれを下敷きにした吉川英治()三国志でも取り上げられた逸話ですが)正史でも負けず劣らずの深い意味があったのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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李卓吾本三国志演義の話

関羽が大好きすぎる曹操

 

李卓吾(りたくご)本版では、関羽が顔良と文醜(ぶんしゅう)を斬った手柄を讃えた曹操が、献帝(けんてい)に上奏して寿亭侯の印を関羽に与えます。しかし、関羽は印字を見ただけで理由も言わずにこれを辞退しました。この話を張遼(ちょうりょう)から聞いた曹操は即座にピンと来て寿亭侯の印を破棄(はき)して漢寿亭侯の印に鋳直して再び、関羽に与えます。

 

関羽は曹操の印綬なら受けないが漢からの印なら受けると快諾します。この話は関羽の義理堅さと曹操の機転を讃えた話なのです。

 

 

 

実はかなりのド田舎な漢寿

水滸伝って何? 書類や本

 

さて、史実の話では、寿亭侯という印はなく最初から漢寿亭侯です。ところが、この漢寿という土地は荊州武陵郡(ぶりょうぐん)にありました。春秋戦国の頃には()の領地で、つまり南の方の土地なのです。

 

関羽が大好きすぎる曹操 ver2

 

それだと曹操が関羽を重んじたというのとチグハグな印象です。中華というのは、同じ役職でもより皇帝に近い場所の方が尊いわけなので曹操が本当に関羽を重んじているなら、(きょ)の周辺の県の印を求める筈どうして、ド田舎の漢寿の印を関羽にあげたのでしょう?

 

 

 

曹操の粋な配慮、漢寿県には由来があった

曹操の粋な配慮

 

しかし、調べてみると思わぬ事実が判明しました。漢寿県は、元々索県(さくけん)という名前でしたが、西暦134年に漢王朝が永久に衰退する事なく栄華が持続しますようにと願を掛けて改名したと言うのです。

 

http://www.iobtg.com/Cc.HanShou.htm

 

歴史マニアの曹操がその故事を知らない筈はありません。だからあえて、漢の忠臣を自任する関羽に漢寿亭侯の印を与えたのです。

 

曹操「漢朝の忠臣、漢寿亭侯関雲長よ、願わくば地名の如く、永久に本朝の繁栄の為に尽くしたまえ」

 

曹操はそういう粋な意図を込めてあえて、漢寿亭侯に関羽を任命、関羽も春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)を読むようなインテリですから、これを辞退せずに「その御意(ぎょい)、必ず全うしてみせます」とニヤリとしたのでしょう。この推測が正しければ、李卓吾本や吉川三国志の美談に負けない歴史オタク同士の知的なやり取りがなされていた事になります。しかし曹操は粋な男ですね、洒落(しゃれ)ていて嫌味がないです。

 

 

 

劉備も義弟を偲んで漢寿県を蜀に造った?

切られる関羽

 

漢朝に忠誠を尽くす事を誓った関羽は西暦219年樊城を攻めている時に呉と魏が軍事密約を結んで挟撃してきた事で戦死します。その後、武陵郡にあった漢寿は曹魏が興ると魏寿県に改名されます。134年の故事にならい、魏が永遠に繁栄するように願を掛けたのです。ところが、その後、魏寿県は孫呉の支配下に入り、皆さんご想像の通りに、呉寿県に改名されました。その後、晋が天下を統一すると、再び漢寿に戻ったそうです。

 

劉備

 

 

さて劉備は西暦221年広漢郡(こうかんぐん)から分割して梓潼郡(しどうぐん)を編成し梓潼郡に属していた葭萌(ぼうが)を漢寿に改名します。劉備の蜀獲りはここから始まったので、それを記念しての事で、もちろん意味は、蜀漢が永遠に繁栄するようにという祈願です。そればかりではなく、以後漢寿は聖地となり暗殺された費禕(ひい)の墓もこの北山にあるなど顕官(けんかん)の墓が多く造営されました。

 

関羽の青銅像

 

ですが、名前や時期から考えて劉備は漢寿の名前の中に非業の死を遂げた関羽の記憶を留めたのではないかと思えます。本来の漢寿が魏寿、あるいは呉寿に改められる中で、自分こそが漢の正統であるという自負もあったのでしょう。この劉備の漢寿県を晋は危険と思ったのか、蜀の滅亡後、名前を改名して晋寿県としています。

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

あるいは、もう少し妄想すると関羽は劉備の下に戻った時に曹操に漢寿亭侯に任命された経緯を自慢げに語ったかも知れません。

 

劉備は曹操が前後左右(ぜんごさゆう)将軍を置くと、自分も真似して前後左右将軍を置く等いいと思った事は割と躊躇(ちゅうちょ)なくパクるので、(ちきしょー孟徳め、粋な事しやがって・・)と内心悔しくなり、本当の漢寿県が消滅したのを幸いに新しく漢寿県を置いた・・なんて考えても見ます。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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