曹操は歴史マニアで霊帝の前で講義を許される程でした。そんな曹操、一時、関羽を配下にしていて白馬延津の戦いで顔良を斬った関羽の手柄を讃えて漢寿亭侯の印を与えた事があります。
こちらの話は古いタイプの三国志演義である李卓吾本やそれを下敷きにした吉川英治三国志でも取り上げられた逸話ですが正史でも負けず劣らずの深い意味があったのです。
李卓吾本三国志演義の話
李卓吾本版では、関羽が顔良と文醜を斬った手柄を讃えた曹操が、献帝に上奏して寿亭侯の印を関羽に与えます。しかし、関羽は印字を見ただけで理由も言わずにこれを辞退しました。この話を張遼から聞いた曹操は即座にピンと来て寿亭侯の印を破棄して漢寿亭侯の印に鋳直して再び、関羽に与えます。
関羽は曹操の印綬なら受けないが漢からの印なら受けると快諾します。この話は関羽の義理堅さと曹操の機転を讃えた話なのです。
実はかなりのド田舎な漢寿
さて、史実の話では、寿亭侯という印はなく最初から漢寿亭侯です。ところが、この漢寿という土地は荊州武陵郡にありました。春秋戦国の頃には楚の領地で、つまり南の方の土地なのです。
それだと曹操が関羽を重んじたというのとチグハグな印象です。中華というのは、同じ役職でもより皇帝に近い場所の方が尊いわけなので曹操が本当に関羽を重んじているなら、許の周辺の県の印を求める筈どうして、ド田舎の漢寿の印を関羽にあげたのでしょう?
曹操の粋な配慮、漢寿県には由来があった
しかし、調べてみると思わぬ事実が判明しました。漢寿県は、元々索県という名前でしたが、西暦134年に漢王朝が永久に衰退する事なく栄華が持続しますようにと願を掛けて改名したと言うのです。
http://www.iobtg.com/Cc.HanShou.htm
歴史マニアの曹操がその故事を知らない筈はありません。だからあえて、漢の忠臣を自任する関羽に漢寿亭侯の印を与えたのです。
曹操「漢朝の忠臣、漢寿亭侯関雲長よ、願わくば地名の如く、永久に本朝の繁栄の為に尽くしたまえ」
曹操はそういう粋な意図を込めてあえて、漢寿亭侯に関羽を任命、関羽も春秋左氏伝を読むようなインテリですから、これを辞退せずに「その御意、必ず全うしてみせます」とニヤリとしたのでしょう。この推測が正しければ、李卓吾本や吉川三国志の美談に負けない歴史オタク同士の知的なやり取りがなされていた事になります。しかし曹操は粋な男ですね、洒落ていて嫌味がないです。
劉備も義弟を偲んで漢寿県を蜀に造った?
漢朝に忠誠を尽くす事を誓った関羽は西暦219年樊城を攻めている時に呉と魏が軍事密約を結んで挟撃してきた事で戦死します。その後、武陵郡にあった漢寿は曹魏が興ると魏寿県に改名されます。134年の故事にならい、魏が永遠に繁栄するように願を掛けたのです。ところが、その後、魏寿県は孫呉の支配下に入り、皆さんご想像の通りに、呉寿県に改名されました。その後、晋が天下を統一すると、再び漢寿に戻ったそうです。
さて劉備は西暦221年広漢郡から分割して梓潼郡を編成し梓潼郡に属していた葭萌を漢寿に改名します。劉備の蜀獲りはここから始まったので、それを記念しての事で、もちろん意味は、蜀漢が永遠に繁栄するようにという祈願です。そればかりではなく、以後漢寿は聖地となり暗殺された費禕の墓もこの北山にあるなど顕官の墓が多く造営されました。
ですが、名前や時期から考えて劉備は漢寿の名前の中に非業の死を遂げた関羽の記憶を留めたのではないかと思えます。本来の漢寿が魏寿、あるいは呉寿に改められる中で、自分こそが漢の正統であるという自負もあったのでしょう。この劉備の漢寿県を晋は危険と思ったのか、蜀の滅亡後、名前を改名して晋寿県としています。
三国志ライターkawausoの独り言
あるいは、もう少し妄想すると関羽は劉備の下に戻った時に曹操に漢寿亭侯に任命された経緯を自慢げに語ったかも知れません。
劉備は曹操が前後左右将軍を置くと、自分も真似して前後左右将軍を置く等いいと思った事は割と躊躇なくパクるので、(ちきしょー孟徳め、粋な事しやがって・・)と内心悔しくなり、本当の漢寿県が消滅したのを幸いに新しく漢寿県を置いた・・なんて考えても見ます。
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