群雄達から恐れられた孫策(そんさく)も名言を残していました。
孫策は揚州刺史劉繇を撃破し、会稽太守王郎の撃破し、
江東全域を制圧しようと試みておりました。
しかし会稽近辺には賊が多く、反乱を起こしていました。
孫策の叔父である呉景(ごけい)は「盗賊を先に討伐した後、
王郎討伐に向かった方が良いのではないか」と提案。
孫策は叔父の提案に対して「群盗、大志あるにあらず、これ擒となすべき
(ぐんとう、たいしあるにあらず、これとりことなすべき)」と名言を残します。
今回は孫策の名言と当時の孫策が置かれていた
状況を分かりやすく解説していきたいと思います。
この記事の目次
袁術にこきつかわれる
孫策は父・孫堅(そんけん)の嫡男で、孫堅の死後まだ幼く、
袁術(えんじゅつ)に身を寄せておりました。
彼は袁術の元に身を寄せると、袁術に牛馬のように
こき使われます。
彼は必死に歯を食いしばりながら耐えます。
そんな中、彼にチャンスが訪れます。
袁術に騙される
孫策は袁術に呼び出され「九江を平定したら太守にしてやる」と言われます。
孫策は張り切って九江を平定し、
袁術の元に報告。
すると袁術は「すまん。手違いで部下を太守にしてしまった。」と
嘘をつきます。
孫策はその後も何処そこの地を平定したら太守にしてやると言われて、
平定するも太守に任命されず、幾度も彼に騙されます。
南北から圧力をかけられる袁術
そんな嘘つき袁術は当時かなり厳しい状況でした。
北から徐州の劉備と兗州の曹操に圧迫されます。
さらに南からも揚州刺史劉繇(りゅうよう)が
孫策の叔父である呉景と孫賁(そんほん)を
江東から追い出して、勢力を拡大し、袁術に圧力をかけます。
こうして袁術は南と北から挟まれ身動きが取れない状況になります。
袁術はこの状況を打開するため劉繇を攻撃している
呉景と孫賁を応援するため部下を派遣。
しかし彼らは劉繇を倒すことが出来ず、日数ばかりが過ぎて行きます。
叔父と従兄弟の加勢を願い出る
孫策は叔父と従兄弟が劉繇軍にてこずっていると知ると
袁術に「叔父と従兄弟を助けて江東を平定し、
袁術様の圧力を無くしたいと思います。そのため私に兵をお貸しください。」と
願い出ます。
袁術は孫策の願いを聞き入れ、千人の兵と馬を数十匹貸し与えます。
こうして孫策は袁術から離れ、江東平定へ向かう事になります。
劉繇討伐戦
孫策は当初袁術から千人ほどの兵と共に長江を目指します。
孫策を慕って各地から兵が集まり、
長江に着く頃には五、六千の兵が彼の元に集結。
孫策は兵力を得ると劉繇の前線基地である牛渚(ぎゅうちょ)を攻略し、
食糧貯蔵庫を奪います。
劉繇は孫策軍を打ち破るため、大軍を送りますが敗北。
孫策は劉繇が送ってきた大軍を撃破した後、
各地を転戦して、劉繇軍に連戦連勝を重ね拠点を奪い続けます。
そして袁術の元から離れて一年後ついに
劉繇の本拠地曲阿を陥落させます。
勢いを駆って江東平定を企む
孫策は劉繇討伐を完了すると、会稽(かいけい)太守の王郎を討伐し、
江東全域に勢力を拡大したいと考えます。
彼はまず叔父である呉景に相談します。
すると呉景は「王郎討伐の前に賊の厳白虎(げんはくこ)を討伐してから、
会稽に進軍した方が安全ではないか」と提案します。
孫策の名言「群盗、大志あるにあらず、これ擒となすべき」
孫策は叔父に反対されると「群盗、大志あるにあらず、これ擒となすべき
(ぐんとう、たいしあるにあらず、これとりことなすべき)」と伝えます。
この名言の意味は「江東に居る賊は大きい志を持っておらず、
後から討伐すればいいではないですか。」という意味です
呉景は孫策の言葉に頷き、会稽討伐に賛成します。
孫策は叔父の説得に成功し、会稽太守である王郎討伐に成功し、
江東平定を完了させ、ついに袁術から独立を果たします。
三国志ライター黒田廉の独り言
皆さんは孫策の印象はどのように思っていますか。
私は戦に強く、暴力的な性格でごつい顔立ちの人物だと
思っていました。
しかし実際の孫策はイケメンで、闊達な性格で、
良く人と笑い話などをする気さくな人です。
また他人の意見をしっかりと聞き、取り入れる人であったので、
張昭や張鉱(ちょうこう)などの優れた人材が集まってきます。
そんな彼は今回紹介した名言を残しています。
戦だけが取り柄ではなく色々な能力を持った人物であったようです。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」
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