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孫権はなぜ孫策の子息を冷遇したの?それは孫権が袁術を愛していたから?

2016年4月4日


 

孫権

 

孫権(そんけん)、字は仲謀は、孫堅(そんけん)が下邳の丞だった182年に誕生しています。

あごが角ばっていて口が大きく、目がいきいきと輝いており、一目見て父親は「高貴の相」だと思ったそうです。

呉書の主役は孫権だけに、出生にまつわる瑞祥譚はお約束でしょう。

11歳で父親は戦死。

一族は兄の孫策(そんさく)が再興します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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13歳で江東平定に随身

かぼちゃ 孫権

 

呉書によると、13歳にして、父や兄に匹敵する名声を得ていたとされています。

性格は明るく、思いやりがあり、決断力に富み、幕下に侠客志士を養っていたというのです。

現代で云うところの中学1年生ぐらいです。

凄すぎです。スーパーチャイルドです。

13歳の孫権が作戦会議で出す意見に、兄の孫策は目を見張り、自分以上だと評価したそうです。

そして自分の跡は孫権が継ぐと紹介していたのです。

呉書ではどうも孫策より孫権のほうが優れていると強調しているシーンが多く見られます。

本当にそうだったのでしょうか。

 

15歳で県長

孫権と三国アヒル

 

そして15歳の若さで揚州呉郡陽羨県の県長になります。

15歳の県知事なんて今では信じられないですよね。

政治の何を知っているの?って感じです。

かなりのバックボーンがないとこの異例の出世はあり得ません。

飛ぶ鳥を落とす勢いの孫策の弟ということもありますが、相当な政治家に認められていないと成し得ない話です。

孫権は一体どれほどのコネクションを持っていたのでしょうか。

 

袁術との関係は?

袁術と孫策

 

そこで登場してくるのが、実質呉郡を支配していたスーパーエリート袁術(えんじゅつ)です。

孫権は袁術にかなり見込まれていたのではないでしょうか。

一般的に袁術は孫策を見て「孫策のような子供がいれば……」と呟いたと云われていますが、

実はそれは孫権を見て云っていたのではないでしょうか。

帝位を専称した袁術に認められていたというのは汚点ですから、

呉書ではあえて孫策に変えてしまったということはあり得る話です。

武力一辺倒の孫策よりも政治に長けた孫権の方が袁術の目には留まりそうです。

 

関連記事:孫策を自分の息子にしたいと思っていた袁術

 

部隊司令代行

孫権 弔い出陣

 

そんな最強の後ろ盾とコネによって、孫権は呉郡太守、

朱治(父親の代からの生え抜きの武将)から考廉の資格を認定され、

揚州刺史、嚴象(献帝を擁する曹操派)からは茂才に推挙され、奉義校尉という部隊の司令長官を代行することになります。

199年、宿敵である黄祖を追いやったときには奉業校尉という任に就いていました。

17歳にして、盧江郡皖城を落とし、黄祖軍を打ち破る原動力となったのです。

 

18歳で孫家当主

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

200年に当主である孫策が死に、孫権が跡を継ぎました。18歳の若さです。

本来であれば、孫策の嫡男の孫紹が継ぐべきでしたが、呉書では孫紹は意気地がなく、

とても父の事業を受け継ぐ器量ではなかったとされています。

孫権の抜擢は正解だと云うのです。

陳寿は、江東に割拠する体制を築いた孫策の功績に対して、

子の孫紹が侯に封じられただけでは情理に欠けていると述べています。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

遅れて来た孫権 英雄

 

孫権が孫策を尊敬していないように映るのは、諡を長沙桓王としたことにもあります。

父親は帝の称号でも、兄は王どまりなのです。

なぜなのでしょうか。

私はそこに袁術が係わっていると感じざるを得ません。

孫策は袁術を裏切り独立しました。

孫権は袁術に恩義を感じていて、兄の行動に納得していなかったのではないでしょうか。

だとすれば孫権が袁術の娘を後宮に入れて保護し、袁術の息子を起用したことも頷けます。

呉書には到底綴れない孫権の感情です。

袁術の子孫が呉帝国の皇帝の正妻になるかもしれない機会が二度もあったことが、

さらにその推測に説得力をつけていると思われるのですが、みなさまはいかがでしょうか?

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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