三国の一角である呉は、孫権(そんけん)の晩年からおかしくなっていきます。
特に、最後の呉の皇帝、孫皓(そんこう)は暴虐非道で、気に入らない家臣は、
顔の皮を剥いだり、目玉をくりぬくなど、最後の暴君に相応しい、
めちゃくちゃな事をしていきます、そして、そんな孫皓の時代に、
デマで殺された孫奉(そんほう)が登場しました。
この記事の目次
小覇王、孫策の孫、その名は孫奉
孫奉(そんほう)の父は、孫紹(そんしょう)といい、
本来なら、呉の統一の覇業は、彼が継ぐ筈でしたか、あまりにも幼すぎました。
彼は、生まれたばかりの赤ん坊だったのです。
そこで、呉の継承者は、孫策の弟の孫権(そんけん)に移り、後に成長した孫紹は、
叔父の孫権から、呉侯に封じられ、後には上虞(じょうぐ)侯になりました。
この、孫紹の子が孫奉でした、彼は正しく小覇王の血脈を継いでいるのです。
暴君、孫皓、左夫人を失い、しばらく政治を見なくなる
暴君、孫皓には、左夫人という、寵愛している妃がいたようですが、
その人が病死してしまいました。
家臣の目は平気でくりぬく孫皓にも、人の心はあるようで、
左夫人を失った傷心から、しばらく政務を放棄して自室に引きこもります。
それは、数か月という長期に及びました。
デマ発生、孫皓死亡説!!
さて、どこから、どうやったのか、しばらく姿を見せない孫皓に、
巷では、死亡説が流れはじめます。
現代日本でも、志村けん死亡説など、根も葉もないデマが時折流れて
いますが、当時の呉でも同じだったのでしょう。
そうでなくても、暴君の孫皓ですから、そのまま死ねばいいのに・・
という家臣たちの本音に尾ひれがついたのかも知れません。
孫奉、孫奮に次の、皇帝の噂が立つ・・
孫皓死亡説は、かなり広がり、事実だと思い込む人まで出ました。
「孫皓が死んだなら、次の帝は、年齢からいって、孫奉様か、
孫奮様じゃね?」
そんな噂が広まるようになり、孫奉はともかく、素行が悪く、
皇帝への野心もありありの孫奮(そんふん)は、まんざらでも無かったようです。
しかし、幾ら広がろうが、デマはデマです。
ある日、ひょっこりと朝廷に出てきた孫皓は、噂を知って激怒します。
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何もしてないのに・・孫奉と孫奮、誅殺される
「なんだとぉ!! 朕の死亡説が流れて、後継には、孫奉と、
孫奮の名が出ているだと!怪しからん、二人とも皆殺しだ!!」
孫奉・孫奮「えええええ!!俺達、何もしてないのに・・・」
ただ、名前が出ただけで、皇帝即位の動きを見せなかった、
孫奉と孫奮ですが、暴君の孫皓には、そんなものは通じません。
こうして、二人は孫皓死亡説というデマのせいで殺されます。
呉国最高のおっちょこちょい、豫章太守、張俊も誅殺される
実は、この孫皓死亡説に乗った、おっちょこちょいの太守もいます。
それが豫章(よしょう)の太守、張俊(ちょうしゅん)でした。
張俊「次の皇帝は、孫奮様に間違いない。
よし、豫章には、孫奮様の母上の仲姫様の墓があるから、
ここを清めておこう。
そうすれば、孫奮様の皇帝即位の暁には、きっと褒められるぞ・・
おお、張俊よ、朕の母の墓を清めたそうだな、
見上げたヤツじゃ、丞相にしてやろうぞ、、なんちて、ウヒョ♪」
こうして、せっせと墓掃除をした、張俊も密告されて、
孫皓の逆鱗に触れて誅殺されてしまいました。
確かに、張俊に下心があったのは事実でしょうが、
墓を掃除しただけで処刑とは、あまりに理不尽過ぎて、逆に笑えます。
三国志ライターkawausoの独り言
結果的に、反孫皓の立場を取ったなら、殺されるのも仕方ないですが、
ただのデマで名前が上がっただけで処刑は理不尽過ぎます。
じゃあ、どうすりゃ良かったというのでしょうか?
まあ、張俊は、デマの真偽を確認しないで乗っかってしまった、
自業自得もありますが、特に孫奉は、何もしてないのに可哀そうです。
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本日も三国志の話題をご馳走様でした。