三国志で印象的なのは、繰り返し描かれる宴会のシーンです。
そこでは酒は欠かせないもので、何百杯でも飲める酒豪も登場します。
しかし、一方で飲めない家臣に無理やり飲ませて、面白がる悪酔い君主も
多くいた事が史書から明らかです。
そこで、はじさんでは歴史に残る悪酔い君主をランキングします。
この記事の目次
第3位 意外! 家臣に泥酔するまで酒を飲ませた劉表
荊州の劉表(りゅうひょう)と言えば、学問の興隆に寄与した
名君として知られていますが、実は、かなり酒癖が悪く、
家臣を散々に酔わせる悪い癖がありました。
劉表は、酒をより深く味わおうと考え、爵(酒の杯)を3つ造り、
大爵を伯雅、中爵を仲雅、小爵を季雅と名付け、それぞれに、
酒を7升、6升、5升と注ぎこみました。
全部総合すると、18升で今の単位だと、16・4リットルになります。
もちろん、この3爵の酒を宴に来た人間一人、一人に出していたと
思われるので、もう色々オカシイとしか思えません。
いかにアルコール度数が低いとはいっても!!
一人で16・4リットルも飲めるわけないじゃん!
劉表は、出席者が酔い潰れるまで帰る事を許さず、さらに本当に、
酔い潰れたか確認すべく、鉄の針のデカイのを造り、酔い潰れた
人を刺して、反応を見ていたようです。
劉備も(りゅうび)、長い間、劉表の世話になっていましたが、
この泥酔するまで飲ませるという宴会に付き合っていたのでしょうか?
劉備がデブチンになったのも、この凄い宴会が原因だったりして・・
第2位 酔い潰れて溺れるまで飲ませる、孫権のヒドイ酒癖
当人も大酒飲みの酒乱として知られる孫権(そんけん)は、
酔うと理性を無くし家臣にヒドイ命令を出す事でも知られています。
張昭(ちょうしょう)伝によると、孫権が、武昌の釣台(沿岸にある)で
いつものように泥酔した時の事、家臣に対しても、自分のように
酔い潰れるまで飲酒を強要します。
そして、潰れた家臣には、宮人に命じて水をぶっ掛けさせて
目を覚まさせ、さらに自ら飲酒を勧めます。
しまいには、「水の中で酔い潰れたら、飲酒を止めていい」と
無茶な命令を出してしまいます。
水中で本当に泥酔したら、溺れ死ぬという事になるからです。
この時、可哀想な呉の家臣達はどうしたのでしょうか?
記録には何も書いてありません。
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第1位 最悪、泥酔させて暴言を吐かせ、処罰した孫皓
孫家には、遺伝的に酒乱の傾向があるのか、孫権の孫にあたる
最後の呉帝、暴君、孫皓(そんこう)にも酒にまつわるヒドイ話があります。
孫皓は、家臣を集めて宴会を開く時に、こう言いました。
「酒の席でも君臣の関係は絶対だ、酔って無礼があれば処罰する」
こうして、家臣を凍りつかせてから、その癖、浴びる程に家臣に
酒を飲ませました。
もうね、この人オカシイです、無礼講は無し、でも、酒は泥酔する
まで飲めというなら、無礼な振る舞いを待っているようなものです。
この宴会に招かれた家臣は、生きた心地がしなかったでしょう。
さらに、孫皓は、僅か一言でも、暴言や不遜な態度を見逃さない為に
司過の徒という宴会を監視する役人を10名配置していました。
彼らは一滴も飲まず、ひたすら宴会の客を監視して、暴言や、
孫皓への無礼な態度がないかを監視する役割です。
こうして、司過の徒は客の様子を逐一、孫皓に報告します。
そこで、孫皓は自身が気に入らないと思った家臣を処罰していたのです。
孫権や劉表でも、酒の席での事は全て大目にみますが、
孫皓は、自分が処罰したいが為に家臣に酒を飲ませたのです。
その性質の悪さは、祖父の孫権を超えると言えるでしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
酒を無理矢理飲ませる君主は、孫権だけかと思いきや、
劉表や孫皓までいたとは意外でした。
こういう人達は、普段のストレスが凄いので、
酒が入るとやたら凶暴になり周囲に迷惑を掛けるのかも知れませんね。
皆さんも、飲めない人に酒を勧めるのは止めましょう。
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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