曹操というと、頭が切れて、戦も上手いスマートな人物として三国志には、描かれています。しかし、その人生を見て見ると、序盤は散々で、方向性は間違ってはいないのですが、曹操自身に力が無いので、全てにから回りします。
前回記事:26話:弟を殺された事が袁紹VS公孫瓚の抗争の原因
空回り続きの若き曹操君
有名な反菫卓連合軍を結成した時には、幼馴染の袁紹を盟主にしたまでは光っているのですが、袁紹は日和見で動かずじまい、焦った曹操は、大金をはたいて集めた5千名の兵力で、菫卓軍の武将、徐栄に挑むも打ち破られて虎の子の兵力の大半を失います。
この敗戦で、有力な諸候も戦死しているので曹操は指導力を疑われついに連合軍を引っ張る事が出来ないまま軍は解散します。その後の曹操は、袁紹の使い走りとして袁術や公孫瓚と戦う毎日を送り、全く世にでる機会がありませんでした。
曹操に訪れる幸運の女神
しかし、西暦192年、雌伏しながらも機会を窺う曹操に大チャンスが訪れます。
兗(えん)州の太守だった劉岱(りゅうたい)が再び勢力を付けた黄巾賊の大軍、30万人に破られ戦死したのです。
この頃、菫卓を暗殺して、政権を握った、呂布と王允は、献帝の命令で袁紹に対して、黄巾賊の討伐を命令します。
当時、曹操の軍師だった陳宮は、
「今こそが、袁紹の支配を抜け出して、曹操が根拠地を得る好機」
と鮑信と運動して曹操を兗州の牧とするように働き掛けます。
袁紹もこれを許して、曹操を兗州に差し向けると曹操は、黄巾賊、30万の大軍を打ち破ってしまいます。
黄巾賊を破った曹操が取った行動が・・・・
しかし、話はそれで終わりではありませんでした。敗れた黄巾賊は、曹操の配下になる事を了承したのです。
曹操が黄巾賊を配下にした理由は何故?
ここには裏がありました、曹操は以前に役人として青州に赴任した時、邪神を祀り、人々を恐怖で支配していた腐敗役人を次々と摘発し、その80%を処刑した事があります。
青州は、黄巾賊が起こった故郷でしたから、彼等は、曹操の善政を覚えていたのです。
黄巾賊:「曹操殿の善政は、我々の太平道の教えと同じものです、悪徳役人の腐敗を憎み太平の世の中を築くのが亡くなった張天師の心からの願いであり、我等の願いでもあります。」
曹操:「あい、分かった、この曹操が戦乱の世を鎮め、張天師が願った太平の世を造ってみせよう、、その為に汝らは、私の手足となって働いてくれるか?」
黄巾賊の指導者達は、曹操にひれ伏して、その理想の為に手足となって戦う事を誓います。
曹操の精鋭部隊誕生
彼等は青州兵として、曹操軍の主力であり続け、以後、数え切れない戦争で手柄を立てる精鋭になります。青州兵は30万人という大軍ですが、それに加えて、100万人という戦争流民も曹操は手に入れてしまいます。
曹操は、これら流民に荒れ果てた兗州の土地を耕作させつつ国力を高める事が出来るようになります。
一夜にして、袁紹の使い走りから、30万の兵力の持ち主になった曹操は、その才能を発現させる勢力を手に入れて天下への道を驀進していく事になります。
その頃、劉備は、いまだ公孫瓚の下で客将として仕える立場でした。