建安文化を代表する文人として「三曹七子」の存在がありますが女性の活躍が少ないこの時代の中で、きらりと輝く女流詩人がいます。名前は蔡琰(さいえん)字は文姫(ぶんき)ゲームなどでは蔡文姫と書かれることが多いでしょうか?
後漢の政治家であり儒家であり書家の蔡邕(さいよう)の娘です。彼女は優れた作品、「悲憤詩」や「胡笳(こか)十八拍」という作品を残しています。また、曹操の命令で、失われた父蔡邕の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかったというほどの才能の持ち主です。
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蔡琰の数奇な人生
蔡琰の生年没年はともに不明です。兗州陳留郡の出身で、初めに衛仲道の妻となりますが、早くに夫を亡くして未亡人となり、実家に戻ります。運命が変わったのは、195年のことです。董卓の残党による乱が起きたとき、蔡琰はなんと、匈奴の騎馬兵に拉致されてしまうのです。連れていかれた先で、南匈奴の左賢王、劉豹に気に入られ、側室にされてしまいます。左賢王(さけんおう)というのは匈奴王の左腕ともいうべき高い位の称号です。劉豹との間には2児をもうけました。
207年に再び蔡琰に転機が訪れます。人材マニアの曹操が、蔡邕に跡継ぎがいないことを惜しみ、「そうだ娘がいたじゃないか」と思い立ち、匈奴と交渉して、蔡琰を帰国させます。蔡琰はこのとき、劉豹との間にもうけた子供を、匈奴においてくることになり、別離の悲しみを歌った詩を作ります。その後、曹操のとりなしで、同郷出身の董祀と結婚します。のちに、董祀が罪を犯した際、蔡琰は曹操にかけあい、夫の死刑をやめさせたそうです。
三国時代の匈奴の暮らし
後漢時代にはまだ強い立場であった匈奴も、三国時代には、部族組織を残したまま、魏に間接支配を受けていました。曹操は単于(ぜんう)つまり、匈奴王を鄴(ぎょう)に抑留し、実権を奪った上で、匈奴の部族を細かく分けてそれぞれに漢人のお目付け役を配置しました。かつて北方で遊牧生活をしていた匈奴も、こうしてだんだんと土着の農耕民族へ変わっていったのです。