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【3分で分かる】光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の華麗な生涯

2016年10月7日


 

光武帝劉秀part1 04 劉秀

 

中国史上、唯一、一度滅んだ王朝を復活させ天下を取った光武帝(こうぶてい)

そんな彼が起こした王朝は後漢と呼ばれ、その最末期で三国志と繋がります。

しかし、三国志に比べると、超マイナーな新漢交代劇を、

はじめての三国志」では、たった3分で説明したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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イエス・キリストと同級生

光武帝劉秀part1 02 劉秀、陰麗華

 

光武帝こと劉秀(りゅうしゅう)は、紀元前6年に

南陽(なんよう)郡蔡陽(さいよう)で誕生しました。

地方豪族の出身で漢の高祖、劉邦(りゅうほう)の血筋を引いているとはいえ

傍系に過ぎず、自身も周辺も皇帝になるとは、じぇんじぇん思っていませんでした。

ただ、同じ年には、あの、イエス・キリストが生まれているようで、

 

少年時代にギャグに目覚める

光武帝劉秀part2 05 劉秀

 

劉秀が少年の頃、兄劉縯(りゅうえん)と姉婿、鄧晨(とうしん)と宛に行き、

穣人の蔡少公(さいしょうこう)と語りあった時の事、図讖(占い)を学んだ

蔡少公が「劉秀、まさに天子と為るべし」と言った事があります。

 

皆は、これを当時の国師公、劉秀の事ではないかと噂し合いましたが、

同姓同名の劉秀は、「どうして僕じゃないと言えるのさ!」と冗談を言い

大爆笑を取りました。

 

これに味を占めた劉秀は、以後、事あるごとにギャグやダジャレを

連発しますが、悲しいかな、ウケたのは生涯、これ一回でした。

 

天下が乱れたので、兄と共に挙兵、牛に乗って登場

光武帝劉秀part1 03 劉秀

 

劉秀が少年時代、前漢は王莽(おうもう)の纂奪で滅び新が建国されますが、

皇帝王莽は政治的には無能で生活に困った農民や豪族の反乱が相次ぎます。

西暦22年、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん)も挙兵しますが

性格がジャイアンだったので当初は参戦する人がいません。

 

しかし温厚で堅実な性格の劉秀も兄に従い、参戦したので、

「劉秀が行くなら俺達も」と希望者が殺到します。

 

光武帝

 

義勇軍は貧しく軍備も劣りました、劉秀は馬が買えず、ウケ狙いで

牛に乗って移動しますが、誰も笑ってくれませんでした。

 

42万の王莽軍を昆陽の戦いで撃破!

光武帝劉秀part1 01 劉秀、陰麗華

 

劉縯や劉秀の軍勢は、各地で豪族の兵団と合流して数を増やしてゆきます。

その中で南陽の豪族、平林軍の劉玄(りゅうげん)が軍団のリーダーになり、

やがて周囲に推されて更始帝(こうしてい)として即位しますが、

当初から、かなりのボンクラでした。

 

西暦23年、更始帝の即位を知った王莽は、つ・ぶ・すの三言を残し、

42万の大軍を起こします。でも戦争の素人だった王莽は、その中に、

63派の兵法家と猛獣使いまで加えていました。

 

サーカス軍団と化した王莽軍は劉秀が守備している昆陽城を包囲します。

劉秀「うわーん、なんでこっちに来るんだよー!」

僅かな守備兵しかなく、ヤケッパチになった劉秀は夜、密かに城を抜け出し

必死で3000の兵を周辺の城から、かき集めると王莽軍に突撃しました。

 

やる気がない王莽軍はマジキレした劉秀に怯えて退却、崩壊し

劉秀は大手柄を立てることになります。

 

兄が殺され、劉秀は河北に転戦して自立する

光武帝劉秀part2 06 劉秀

 

自慢のサーカス軍団が劉秀に大敗した事で、王莽の求心力は地に落ちます。

一方で更始帝の軍勢には、日和見していた多くの豪族が合流し一大勢力になります。

西暦23年、長安に入城した更始帝の軍勢により王莽は殺害され、

新王朝は15年という短い命脈を閉じます。

 

しかし、新との戦いで大きな手柄を立てた劉秀と兄、劉縯は更始帝の

脅威になり、兄は濡れ衣を着せられて誅殺されます。

劉秀も厳しい監視下に置かれますが、河北で農民反乱が頻発していたので

武勇に優れた劉秀を派遣する事になり命拾いします。

こうして、劉秀は更始帝から離れ自立の道を歩く事になります。

 

邯鄲で王郎が漢の皇帝の子孫を詐称し劉秀大ピンチ

光武帝劉秀part2 04 劉秀

 

河北で賊を討伐していた劉秀に大ピンチが訪れます。

大都市だった邯鄲で占い師をしていた王郎(おうろう)という男が突如として、

「俺、実は前漢の成帝の息子なんだよ、皆俺の言う事聞け」と嘘宣言し

邯鄲で独立、北に移動した劉秀の首に多額の懸賞金を懸けて命を狙います。

 

河北の多くの都市は王郎に付き劉秀は追い詰められ、

昼は洞窟に潜んで追手をかわし、部下の拾ってきた薪で暖を取り、

粗末な豆粥で飢えをしのぐという、どこぞの

黄金伝説の無人島生活のような毎日でした。

しかし、劉秀はやっとの事で味方が守る南方の信都(しんと)郡まで退却、

ようやく拠点を得て、王郎の勢力で10万の兵力を持つ、

真定王の劉楊(りゅうよう)と姻戚関係を結び、その姪の郭聖通を劉秀が妻にする事で、

王郎の勢力を引き抜き、さらに部下の活躍で烏桓(うかん)突騎兵を味方につけて

勢力を増大させると、西暦24年、邯鄲を陥落させ王郎を戦死させました。

 

劉秀、占いで皇帝に即位し後漢を建国

光武帝

 

あわよくば劉秀に死んで欲しいと思っていた更始帝は河北を平定した

劉秀を恐れ、䔥(しょうおう)という位を与え兵を解散して

長安に戻るように命じます。

しかし、戻れば殺される事を知っている劉秀は拒否します。

 

西暦25年、劉秀の家臣達は、何度も劉秀に皇帝に即位するように要請。

それを劉秀は3度まで蹴りますが、4回目に家臣が赤伏符(せきふくふ)という

予言書を持ってきて「スピリチャルのお告げ」言うと、あっさり即位します。

劉秀は神秘的な占いが大好物で功臣達も中国の星座、二十八宿になぞらえて、

雲台二十八将として顕彰するなど、聖○士聖矢な事をしてます。

 

関連記事:光武帝はとんでもないスピリチュアマニアだった!?劉秀の意外な一面

 

更始帝、赤眉軍に殺される、光武帝、天下統一に着手

光武帝

 

同年、乱れた政治で求心力を失った更始帝劉玄は、

赤眉(せきび)という農民反乱軍により長安に入城され殺害されます。

元々、赤眉は王莽への反乱を計画して結成されましたが、

王莽が死んだ後は目的を失い、数十万の大兵力を食べさせる為に

無差別に都市を襲う人間イナゴと化していたのです。

 

邪魔な更始帝が殺され、主君に弓を引くという不忠から解放された

光武帝は、天下統一事業を再開し、赤眉征伐の詔勅を下し、

大司徒、鄧禹(とうう)と征西大将軍、馮異(ふうい)を派遣しました。

鄧禹と馮異は何度か赤眉に敗れますが、馮異が兵を纏めて赤眉を撃破、

逃げた赤眉は食糧を失い飢えに苦しみ戦う事なく光武帝に降参しました。

 

光武帝、隴西と蜀を攻略して天下を統一!

光武帝

 

その後も国内では、無数の農民反乱軍や、豪族の蜂起が相次ぎますが、

二十八将の討伐や、劉秀の親征で一つずつ潰されていきます。

そして最後に残った隴西の隗囂(かいごう)と隗純(かいじゅん)の親子、

そして、蜀の地方政権、公孫述(こうそんじゅつ)を次々と兵力を派遣して

討ち滅ぼすと、西暦36年とうとう中国を統一しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

中国を統一した皇帝は、大抵、残酷で天下統一後に功臣を殺戮したり、

敵に対して、一切の温情がないなどドライな印象があります。

光武帝も完全無欠ではありませんが、自分の脅威にならない敵は、

降伏を許したり、功臣については、一人も誅殺していない等、

性格の温和さが死去する時まで続きました。

 

また、年貢の減免措置や奴隷の解放など、減少した人口を回復させる

政策を打っていて、人民に感謝されています。

冗談が大好きで、面白半分で「死刑!」と言っては「なーんちゃって」

を繰り返すなどして、家臣とも和気あいあいであった等、

中国史上に残る、ギャグ大好き名君であると言えるでしょう。

 

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光武帝

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-新末後漢初期
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