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韓浩(かんこう)とはどんな人?曹操が常に手元に置きたがった男

2016年10月18日


 

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司馬朗 曹操

 

曹操率いる魏は色々な人材が彼の元に集まり、

集まった人材は曹操の為に自らの能力を最大限に使って曹操の覇業を助けていきます。

 

韓浩(かんこう)は曹操が手元に置いておきたかった男

 

今回紹介する韓浩(かんこう)も曹操に仕えてからは、

自らの能力を使って曹操を助けた臣下であり、

曹操が手元から離さず常に近くに置いて使って来た武将です。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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仲間を集めて董卓軍を防ぐ

司馬朗 董卓

 

韓浩は始め董卓連合軍に参加した王匡(おうきょう)の家臣として仕えておりました。

彼は王匡の軍勢が必ずしも多くなく、土地を維持できない可能性があると知ると

山賊や盗賊など昔の仲間を呼び集めてにわかの軍勢を仕立て上げます。

そして董卓軍が王匡の領地へ攻撃をかけないように董卓と王匡の領地の境目を流れていた

孟津(もうしん)と呼ばれる渡し場をしっかりと守備して董卓軍の侵入を防ぎます。

 

董卓の脅迫に屈しない

董卓

 

董卓は韓浩が自軍の侵入を許さない堅い守備を敷いていることを知ると、

彼の叔父を脅迫して自分に仕えさせた後韓浩に「叔父も俺に仕えている。

君も俺に仕えないか。」と誘います。

韓浩は董卓からの誘いを断り「叔父はお前の脅迫に屈したが、俺はお前の誘いなんかには

乗らん。」と強気の発言をして董卓からの誘いを断ります。

韓浩が董卓の誘いを蹴っ飛ばしたと知った袁術(えんじゅつ)は、

彼の心意気に感動して騎都尉(きとい)の位を贈ります。

韓浩は単身で董卓の脅迫を跳ね除けた人物としてその名を世に広めます。

 

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夏侯惇に仕える

みんなで魏志倭人伝(夏侯惇、典偉、夏侯淵、許長、張遼、曹操)

 

韓浩は王匡の元から離れる決意をします。

彼が王匡の下から離れる決意をさせたのは曹操挙兵時から

彼を支えてきた夏侯惇(かこうとん)との会見がきっかけでした。

夏侯惇は韓浩が董卓の誘いを蹴っ飛ばしたことを知ると単身彼の元を訪れます。

韓浩は夏侯惇が現れると大いに驚きますが、彼が話をしに来ただけと分かると彼をもてなします。

夏侯惇は韓浩が高い見識と義侠心に溢れた人物であることを知ると

「私の部下になってくれないか」と頭を下げて頼みます。

韓浩は夏侯惇が頭を下げてお願いしたことにびっくりしますが、

彼の熱意に負けて夏侯惇と共に曹操に仕えることを決意します。

こうして韓浩は王匡の元を去り夏侯惇に仕えることになります。

 

魏のマイナー武将列伝

 

夏侯惇の危機を助ける

夏侯惇

 

韓浩は夏侯惇に仕えると彼とともに様々な戦に従軍することになり、

着実に実績を上げていきます。

兗州の大半を呂布が占拠した時も夏侯惇と共に兗州各地を転戦することになります。

この時呂布の武将が夏侯惇の元へ降伏してきます。

彼は呂布の武将が降伏してきたことを大いに喜び軍中に留めおくことにしますが、

この時事件が発生。

呂布の武将は本当に降伏したのではなく、偽りの降伏で夏侯惇を捕縛します。

そして呂布の武将は陣営にいる曹操軍の武将を脅迫して、

財宝と食料を出すように要求します。

韓浩は呂布の武将へ「お前が捕えているのは私の主君であるが、主君の為にお前の要求を

受けるわけにはいかん」と呂布の武将を怒鳴りつけて、

部下とともに斬りかかります。

そして呂布の武将は韓浩の活躍によって見事に成敗され、

夏侯惇も身に傷を負うことなく救出されることになり万事解決します。

 

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夏侯惇から曹操に仕える

曹操 夏侯惇

 

夏侯惇は兗州が平定された後、曹操に韓浩の活躍を話します。

すると曹操は韓浩を呼んで大いに褒め「今後このような事件が起きた場合、

人質を気にせず賊を殺害せよ」と布告を出した後、

韓浩へ「私に仕えよ」と命じます。

韓浩は曹操から直々に命じられると一度夏侯惇の方を向きどうすればよいのかと

目で訴えます。

すると夏侯惇は大きく頷きます。

この様子を見た韓浩は曹操からの命令を快諾し、以後夏侯惇の下から離れて

曹操へ仕えることになります。

 

曹操に屯田制を進言

曹操アップルパイを焼く

 

三国志の前半は各地の群雄が様々な所で割拠し、

戦を繰り広げていた事と戦乱によって村に住む民衆が

土地を放り出して安全な場所に避難したこと、飢饉や旱魃が酷かった事が原因で、

コメ不足が深刻な状況になります。

曹操が領有していた兗州(えんしゅう)も例外ではなく、

兵糧があまりなく各地へ兵を出陣させることが難しい状態でした。

この状況を危惧した韓浩(かんこう)と棗祇(そうし)は曹操へ

「中華の現状はどこもかしこも兵糧不足で困っております。

我が領地である兗州も例外なく兵糧がない状況が続いております。

この状況が続けば群雄を倒すために出陣する兵糧を捻出することも困難になり、

いずれ兵糧を豊かに持った群雄に打倒されてしまうかもしれません。

そこで我らが一生懸命考えた結果屯田制(とんでんせい)を行い、

兵糧を潤沢にすることが急務であると考えます。」と進言します。

この進言を聞いた曹操は大いに喜び棗祇に屯田制を実施するように命じ、

韓浩には護軍の位へ昇進させます。

この屯田制はその後棗祇が一生懸命改良に改良を重ねて、

ついに新たな屯田制を完成させることに成功し、

曹操の軍団は大いに軍事力を飛躍させることになります。

 

烏桓討伐に従軍

烏桓

 

韓浩はその後、曹操や夏侯惇と共に各地を転戦。

官渡の戦いにも従軍して功績を挙げていき、河北平定戦でも決断力溢れた用兵を見せて

曹操に褒められることがしばしばありました。

曹操は袁家の兄弟を河北から追い出すと、彼らが鳥桓族の元に匿われていることを知ります。

彼は袁家の兄弟を匿っている鳥桓族討伐のため、諸将の反対を押し切って出陣。

この時韓浩も曹操と共に出陣することになります。

彼は曹操の挙兵当時から活躍している史渙(しかん)と共に

鳥桓族を討伐するべく彼らの領地奥深くへ進軍していきます。

史渙は韓浩に「我らは道も知らず、鳥桓族の領土がどのようになっているかも分からないまま

奥深くへ入っていくのは危険ではないか。殿へこれ以上進むことをいったんやめてもらい、

しっかりと調査をした後に攻め込んだほうがいいと進言したほうが良くないか。」と相談します。

しかし韓浩は「今我らの軍勢は袁家を追い出して、兵は勢いに乗っており、

諸将もすこぶる調子がいい。このいい状態を放棄するのは危険で、

袁家兄弟をこのままほっておけば統一した河北が乱れるかもしれん。

また殿は戦えば勝ちつつけている名将ではないか。

異民族ごとき恐るに足らん。」と史渙を説得して、鳥桓族の領内に突き進んでいきます。

そして韓浩が史渙へ言ったとおり曹操は鳥桓族を見事に蹴散らし、大勝利を収めます。

 

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韓浩を手放さない曹操

曹操 ヨイショ

 

曹操は河北統一戦の後も第一線で戦い続け、赤壁の戦い・孫家との戦い・関中十部討伐戦など

様々な戦いを乗り切ってきます。

曹操は関中十部を攻略した後、漢中に本拠を置いている張魯(ちょうろ)討伐戦を決行。

陽平関で張魯軍を蹴散らすと張魯は漢中を捨てて逃亡した後、曹操に降伏します。

こうして漢中を占領することに成功した曹操率いる魏ですが、

誰を漢中の守りに置くかで議論になりました。

諸将の一人は「夏侯淵(かこうえん)殿をこの地に置いておけば間違えないであろう。」と

曹操へ進言する者がいれば、

「いやいや歴戦の武将である張郃(ちょうこう)殿を守備には定評がある」などの提案が出たり、

議論は混迷します。

この時「韓浩殿に任せておけば間違いが起きることはあるまい」と言った武将がいおりましたが、

すぐに曹操はこの発言をした者に対して

「俺には韓浩は必要だからここには置くことはしない」と

反対します。

この発言は曹操が彼の能力を非常に頼りにしていた証左であり、

曹操から信頼されるほどの能力を有していた人物であることにもなります。

しかし彼はこれほど信頼していた韓浩は病に倒れ、そのまま亡くなってしまいます。

彼が亡くなった事を聞いた曹操は大いに悲しみかつ彼の優れた能力が失われたことを残念がります。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

韓浩はあまり有名な人物ではありませんが、

決断力や見識の高さ、義侠心に溢れた姿勢などが

曹操に評価された人物です。

これほど曹操にその才能を愛されていた人物ですが、あまり知名度がないのが残念です。

これからも三国志のマイナーな武将を皆さんに知ってもらうため、不定期でピックアップして

紹介していきたいと思います。

「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃぁまたにゃ~」

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

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