劉備は蜀を劉璋(りゅうしょう)から強奪すると、益州の玄関口と言える漢中へ攻撃を開始します。
漢中を守っていた夏侯淵(かこうえん)や曹操(そうそう)と
激しい攻防戦を繰り広げ、ついに漢中を奪取。
そして彼は漢中王へと就任することになります。
しかしここで一つ疑問に思ったのは
なぜ劉備は益州の王(蜀王)として君臨するのではなく、
益州より領土の狭い漢中王へ就任したのでしょうか。
それには深い理由がありました。
この記事の目次
鶏のアバラは食えん!!
劉備は大軍を率いて来た曹操と激しい攻防戦を繰り広げますが、
両者一歩も退かず決めてを書いておりました。
曹操は西の戦線にも気を配らなくてはならなかった為、
漢中にばかり気を取られているわけにも行きませんでした。
さらに軍の兵糧が欠乏し始めており、このまま漢中攻撃を続行していいのか判断に迷います。
そして彼は「鶏肋」と諸将に命令を出します。
鶏肋とは読んで字のごとく鶏の肋の事で、
この鶏のアバラからダシを取ることができるので捨てるには惜しいですが、
食べてもお腹がいっぱいになりません。
曹操は漢中を鶏のアバラに例え軍に漢中を捨てて退却を決断します。
こうして煮てもダシしか取れない漢中を捨てて退却。
劉備はなんとか曹操軍を撃退することに成功し、漢中を保持することになります。
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漢中王へ推挙される
劉備は曹操軍を撃退すると家臣達から「曹操が魏王になっているのに、
殿が曹操と対抗しないでいるのはおかしいです。
どうか漢中の王となって曹操に対抗するべきです。」と諸将がこぞって劉備へ進言。
この進言を聞いて劉備は漢中王へ就任することになります。
蜀王ではなく漢中王へ就任した理由その1:漢王朝復興の大義名分を民衆に知らしめるため
劉備はなぜ蜀の王ではなく、蜀より領土面で狭い漢中の王となったのでしょうか。
それには深い理由がありました。
劉備は生まれ故郷を出てからずっと漢王室の復興を掲げておりました
(本心は違ったと思いますが)。
その為漢中の王となることで漢王室復興を俺は本気で目指しているぞと
民衆や反曹操の人々へアピールすることができます。
なぜ漢中王となることが漢王室復興をアピールすることになるのでしょうか。
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蜀王ではなく漢中王へ就任した理由その2:漢中王から漢王室が生まれたため
劉備は反曹操の勢力や民衆へ漢王室復興をアピールすために漢中王となったのではないかと
上記で述べました。
では漢と漢中王は何か関係性があるのでしょうか。
漢中王と漢は密接な関係にあります。
漢中王は、前漢初代皇帝である劉邦(りゅうほう)が項羽(こうう)から任命された爵位です。
劉邦は崖に板を通したような断崖絶壁の道を進んで、なんとかこの漢中の地へ到着、
その後漢中王となった劉邦は項羽と再び対決する為、
この地で力を蓄えて項羽に対して反撃の狼煙を上げます。
そして劉邦は項羽と激しい戦をいくつも繰り広げ、項羽に勝利を収めます。
彼は項羽に勝利すると皇帝へ就任し、国の名前を漢中王の一文字「漢」を取って、
国号を漢に定めます。
また劉邦は漢中で王になった後、天才軍略家である韓信(かんしん)と出会います。
劉備は上記二つの理由から漢中王を名乗ったのではないのでしょうか。
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三国志ライター黒田廉の独り言
劉備が漢中王に即位した際、献帝である劉協(りゅうきょう)へ
以前もらった左将軍の位を返し、大司馬の位を送るように要請。
劉協は劉備の願いを聞き入れて彼に大司馬の位を送りますが、
漢中王へ就任したことに対して認める書簡は送ってきませんでした。
しかしここで献帝から王の位を名乗ることを認めてもらっても、
三国時代は実力が物を言う時代に突入していたので、
あまり意味はなかったでしょう。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃ~またにゃ~」
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