群雄割拠の時代が終わり中華は魏・蜀・呉の三つの勢力に分裂して、
中華の覇権を握る戦いが激しく行われておりました。
今回は三国志ではあまり有名ではない呉の戦いに迫ってみたいと思います。
呉の戦のといえば思いつくのは蜀の劉備軍に大勝利した「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」か
孫権の長年攻撃し続けた「合肥の戦い(がっぴのたたかい)」などが比較的に有名だと思います。
しかし孫呉の戦いはそれだけではありません。
今回は孫権の戦歴の中でも成功と言っていい戦である「芍陂の役(しゃくひのえき)」と言われる
戦いについてご紹介したいと思います。
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この記事の目次
ゴタゴタあって魏へ攻撃を仕掛けられなかった
孫権は久しぶりに魏に対して攻撃を開始することを決意。
魏へ攻撃を仕掛けたのは孔明の要請によって行った合肥方面への攻撃が最後でした。
それから7年間魏へ攻撃を積極的に行いませんでした。
なぜ孫権は魏へ攻撃を行わなかったのでしょうか。
まず重臣である呂壱(りょいつ)事件と公孫家との外交問題がありました。
呂壱事件
呂壱は孫権側近として信頼を勝ち得ると呉の大臣や将軍達へ攻撃を仕掛けます。
彼が行った攻撃とは気に食わない大臣などが小さい罪でも起こすとすぐに弾劾して、
孫権に話を盛って報告。
この報告を聞いた孫権は信頼している人物からの情報であるため、
すんなり受け入れて報告された大臣に罪を与えます。
こうした呂壱のやり方によって罪に落とされた人達は数多く、
当時孫呉政権の丞相であった顧雍(こよう)も呂壱のせいで罪を着せられてしまいます。
その為孫呉政権の重役である陸遜などが孫権に「呂壱をこのままにしてはいずれ呉にとって
災いが起きるに違いありません」と上奏します。
しかし孫権はこの上奏を採用することなく聞き流します。
呂壱は前々から気に入らないと感じていた将軍・朱據(しゅきょ)を罪に陥れます。
彼が罪を着せられた事を知った下っ端役人の李衡(りこう)はすぐに孫権のもとへ出かけて、
彼に呂壱がいかに孫呉にとって危険な人物かを数時間の間語ります。
この結果孫権は呂壱を用いている自分を反省して、すぐに呂壱を捕縛。
その後呂壱によって罪を得ていた将軍をすべて解放し、この事件は終結します。
公孫家との外交問題
こうして孫家の内輪の問題であった呂壱事件が集結すると次なる事件が発生します。
それは遼東に長年勢力を築いていた公孫家との外交問題です。
当時の公孫家の当主は公孫淵(こうそんえん)と言われる人物。
彼は領土が魏と接していることから魏に服従しておりましたが、
彼は魏との服従関係を終われせたいと考えておりました。
そこで海を使って遠く離れた孫呉と親密になろうと考え、使者を孫呉に派遣します。
公孫淵の使者が孫呉に到着して孫権と会見すると使者は
「我が主公孫淵は孫家と親密な関係を築いていきたいと考えております。
また主は孫呉の藩屏として付き従っていきたいとのことです。」と伝えます。
この言葉を聞いた孫権は大いに喜び公孫淵の使者が帰った後、
大量の金銀財宝を持たせて返礼の使者を遼東に派遣。
しかしこの使者は孫家に帰ってくることはありませんでした。
なぜならば孫呉に服従しようと考えていた公孫淵ですが、
魏の圧力が強くなっていることを感じており孫家の使者がやってくると彼らを殺害して、
孫呉が持ってきていた金銀財宝をかっぱらって自分の物として、
使者の首を魏の王朝へ送ります。
この事実を知った孫権は激怒し、自ら公孫淵討伐に向かうと言い放ちます。
しかし重臣達が必死になって止めたことからなんとか孫権自ら公孫淵討伐へ向かうことはありませんでした。
こうして公孫家との外交問題が終わりますが、他にもヒューマンハンティングを海外にしに行ったり、
色々な事を行っていたことがあったため、中々魏に攻撃を仕掛けることができませんでした。
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国内情勢を安定させると一人の武将が進言
国内情勢を安定させることに成功した孫権は一人の文官から進言を受けます。
この文官は孫権に「国内は安定し、
魏は皇帝が幼いことから魏へ攻撃するチャンスであると考えます。
まず荊州方面に朱然(しゅぜん)殿や諸葛瑾(しょかつきん)殿に攻撃させて、
その後寿春方面に陸遜殿へ攻撃を命じます。
そして陛下に合肥方面に攻撃してもらえば必ず勝つことができましょう。
また蜀に長安方面へ攻撃するように要請を行えば、必勝は確実であると考えます。」と進言。
しかし孫権はこの進言を取り上げることはありませんでした。
だがこの進言がきっかけとなり、孫権は久しぶりに魏へ攻撃を行う意欲が出てきます。
魏討伐作戦発動
孫権は魏を討伐する為に荊州と寿春の二面作戦を展開
荊州方面には孫権の幼なじみである朱然と諸葛瑾に攻撃を命じます。
そして寿春方面には全琮(ぜんそう)や張休(ちょうきゅう)に命じて攻撃を行わせます。
こうして始まった久しぶりの魏討伐戦が開始されることになります。
盧江へ攻撃を開始
孫権はまず全面作戦を行わせる前に魏の領土である盧江(ろこう)へ攻撃を行うように
諸葛瑾の息子である諸葛恪(しょかつかく)へ命じます。
諸葛恪はいさんで盧江の役所がある六安へ攻撃を行います。
魏軍は後に司馬家に対して反乱を起こした文欽(ぶんきん)が軍勢を率いて、
諸葛恪と一進一退の攻防を繰り広げます。
いつもの合肥攻略かと思いきや・・・
孫権は盧江で攻防戦が開始されることを知ると全琮や張休の諸将に命じて軍勢を北上させて、
魏の領土へ攻撃を仕掛けるように命令。
彼らは孫家お得意の合肥攻撃を行うかと思いきや今回はひと味違いました。
孫権は合肥城攻略戦で何回も痛い目にあっていることから、
今回の魏討伐戦では視点を変えて合肥より奥にある魏の領土である寿春近辺にある
兵糧集積所へ攻撃を仕掛けるように命じます。
この作戦は功を奏します。
魏は対孫家防御ラインを合肥と定めており、この地に大軍を集結させておりました。
その為寿春周辺には守備兵はほんの少しだけしかいない状態でした。
この状態の時に孫家の大軍が襲いかかってきたため、
寿春周辺にある兵糧集積所は焼かれてしまいます。
しかし呉軍を迎撃するため、少ない兵ながら駆けつけた武将がおりました。
孫礼の必死の抵抗
孫礼は孫家が守備兵が少ない兵糧集積所へ攻撃を仕掛けてきたことを知ると急いでこの地へ
向かいます。
そして少ない守備兵を取りまとめて孫家に防御戦を挑みます。
孫礼は魏の政治家である崔琰(さいえん)から「この人は功績が現時点ではほとんどないが、
いずれ三公のくらいに出世するほどの大人物となるであろう」と言われた人です。
そんな彼は必死に孫呉軍の攻撃を耐え忍びます。
この戦いは守備軍の大半が戦死し、
孫礼が乗っている馬も何回か孫家の兵が放った弓矢に射抜かれて倒れ、
その度に馬を代えて指揮を行わなければならないほどの激戦でした。
こうしてなんとか一日孫呉の激しい攻撃を耐え抜いた孫礼軍。
翌日この地へ孫権キラーとして有名な満寵(まんちょう)の後任として配置された王凌(おうりょう)が
援軍を率いて到着すると攻守が逆転することになります。
全琮、魏軍の大軍から攻撃を受けて退却を決意
全琮は王凌の大軍が到着するとすぐに退却する決断を下します。
元々この地を占領することが目的ではなく魏の領土を荒らすことが目的であったので、
援軍が到着すると被害が出る前にさっさと退却していきます。
こうして寿春方面の戦いは閉幕します。
呉は当初の目的を達成したので久しぶりに戦いに勝った満足感を覚えながら、
帰国することになります。
諸葛瑾が樊城への進路を確保
諸葛瑾(しょかつきん)と朱然(しゅぜん)のコンビは魏の領土である北荊州(けいしゅう)へ
侵攻を開始。
まず諸葛瑾が荊州北部にある樊城(はんじょう)へ呉軍が攻撃をしやすいようにするため、
樊城と江陵の真ん中くらいにあり、魏呉の緩衝地帯となっている柤中(そちゅう)へ軍を進め、
この地に駐屯します。
諸葛瑾が柤中に駐屯したことによって呉軍は樊城攻撃を行うための進路を確保。
朱然率いる呉軍本体は樊城へ向けて進軍を開始します。
樊城の包囲を完璧にする
朱然は樊城に到着するとまず呂拠(ろきょ)や朱異(しゅい)らの若手武将に命じて、
魏軍が援軍に来ても攻撃できないように防御陣地を構築させると共に、
樊城の防御力低下の為に色々と破壊工作を行い、城外の防御力低下に成功。
そして朱然は全軍に樊城を包囲するように命じて、魏軍が弱るのをじわじわと待ちます。
魏軍は近辺から樊城へ援軍がやってきますが、
呉軍の兵数の多さや防御陣地がしっかりしていたことから攻撃することができずに、
外側から樊城に援軍を知らせる鐘や太鼓を叩いて、
樊城にこもっている兵の士気を上げることに注力します。
朱然が樊城包囲を始めてから1ヶ月が経ちました。
彼は寿春に攻撃を仕掛けていた呉軍が退却したことを知り、
二方面作戦が失敗に終わったことを知りますが、
魏軍が樊城包囲陣の外に駐屯しているだけで、
本格的に救う意思がないことを知ると包囲を続行します。
蜀軍も呉軍に連動して北伐へ向けて準備を始める
呉の将軍朱然が樊城を包囲していたとき、蜀も魏へ攻撃を仕掛けるべく北伐の準備に入ります。
この時の蜀の主導者は蒋琬(しょうえん)です。
彼は呉軍と連動して漢水を北上して、魏の上庸(じょうよう)へ攻撃する作戦を立案。
蒋琬はこの作戦を立案すると着々と魏へ攻撃をしかける準備を始めます。
蜀の動きを察知した司馬懿が動き出す
司馬懿は蜀軍が呉軍と連動して魏へ攻撃を仕掛け用としている事を知り、
文官・武官が集まる会議の席で「このまま樊城を放置プレイしていれば、
呉軍に取られてしまいます。
そこで私が自ら軍勢を率いて呉軍を蹴散らして、樊城を救出してきましょう」と提案します。
しかし魏の文官や武官達は「司馬懿殿が自ら兵を率いて援軍に行かなくても、
呉軍はそろそろ引き上げるのではないのでしょうか」と言って司馬懿が援軍へ向かうことに反対。
だが司馬懿は「お前ら、もし樊城が取られたらどうするんだ。
責任とれんのか」と語気を強めて発言すると諸将は黙ってしまいます。
彼は「黙っていると言うことは賛成でよろしいですな。各々方」と
言って半ば強引に自らが軍を率いて援軍に向かう事にします。
蜀軍動けず、呉軍は司馬懿に敗北する
蜀軍は呉軍と連動した作戦を展開するべく準備を進めておりましたが、
蒋琬(しょうえん)が病になってしまったことや蜀の群臣達が反対したことが原因で、
作戦は中止となります。
蜀軍の魏軍攻撃作戦が中止に決まった頃、
樊城では朱然と援軍に来た司馬懿が熾烈な激戦を繰り広げておりました。
両者共に一歩も譲らず激しい攻防戦を展開しておりましたが、
呉軍に事件が発生します。
まず柤中に駐屯していた諸葛瑾が病にかかってしまい軍の指揮ができなくなったことが、
一つ目の事件です。
そして二つ目の事件は呉の皇太子である孫登が亡くなってしまったことです。
その為朱然は軍を退却させる決意を固め、夜中にこっそりと樊城から退却。
司馬懿は呉軍が退却するであろう事を予知して朱然軍が退却を開始した頃、
全軍で追撃して呉軍へ痛撃を与えます。
朱然は司馬懿軍の追撃に反撃できずに被害を出しながら退却していきます。
こうして芍陂(しゃくひ)の役は幕を閉じます。
三国志ライター黒田レンの独り言
芍陂の役は呉軍にとって久方ぶりの魏軍討伐戦でした。
寿春方面では魏の領土をおおいに荒らしまわって損害を与えることに成功します。
しかし荊州方面では皇太子の死や諸葛瑾が病にかかってしまったこと、
蜀軍が連動して魏へ攻撃を仕掛けなかったことなどが原因で敗北してしまいます。
もしこの時蜀軍が連動して魏へ攻撃をかけていたら、もしかしたら樊城は陥落し、
蜀も上庸攻略に成功して、魏・呉・蜀の三国は新たな局面を迎えていたかもしれません。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~」
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