袁紹軍の二枚看板と謳われるほどの強さを誇った顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)。
しかし彼らは曹操との決戦である官渡の戦いが行われる前に曹操軍に敗北して、
討ち死にしてしまいます。
顔良が敗北したのは白馬(はくば)攻防戦の時に曹操軍に身を寄せていた関羽との一騎打ちで、
敗北してしまいます。
これは三国志演義などで知られており有名ですが、
袁紹の二枚看板のうちのひとりである文醜はどうして敗北してしまったのでしょうか。
今回は文醜が敗北した戦いをご紹介していきたいと思います。
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顔良死す・・・・そして
曹操は袁紹軍の先陣である顔良・郭図(かくと)らの軍勢が白馬へ向けて出陣したことを知ると
急いで大軍を率いて南下してくると関羽・張遼(ちょうりょう)らを引き連れて出陣。
彼はものすごいスピードで白馬を通り越して、
袁紹軍きっての勇将で二枚看板と言われる顔良軍へ関羽・張遼を先陣にして猛攻をかけます。
顔良は突然曹操軍の攻撃を受けて混乱。
顔良軍が混乱しているところを関羽が顔良へ一騎打ちを仕掛けて討ち取ることに成功し、
白馬城を攻撃していた袁紹軍の先陣を退けます。
袁紹は顔良が討ち取られ曹操軍が退却している事を知ると
袁紹軍の騎兵隊長で顔良と比肩する猛将である文醜と客将であった劉備に追撃を命じます。
荀攸の作戦
曹操の参謀として付き従っていた荀攸(じゅんゆう)は曹操が、
白馬を捨てて南阪(なんはん)に築いていた砦へ帰ってくると作戦を進言。
荀攸は「殿を追撃してくる軍勢は文醜ですが彼らを討ち取る方法として良案がございます。
現在輜重隊がこの南阪めがけてやってきているのですが、
文醜軍と鉢合わせる事になるのでしょう。
その時文醜はこの輜重隊に目がくらみ襲うはずです。
そこで文醜軍が輜重隊を襲っている時に全軍で文醜の軍勢を攻撃すれば、
文醜を討ち取ることができるでしょう。」と進言。
曹操はすぐに荀攸の進言を採用してすぐに出陣する準備を整えます。
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荀攸の作戦があたり、文醜も討ち取られる
文醜は騎兵を率いて曹操軍がこもっている南阪の砦へ向かって劉備軍を突き放して、
先行している状態でした。
文醜は斥候(せっこう)を放ちながら進んでおりましたが斥候が文醜へ
「将軍。敵の輜重隊が南阪の砦へ向かって進んでおります。」と報告。
文醜はすぐに輜重隊を襲う決断をし、輜重隊へ向けて攻撃を始めるように命令します。
彼は輜重隊を発見すると攻撃を行いますが、いきなり曹操軍の騎兵隊が文醜軍を攻撃。
バラバラになって輜重隊を攻撃していた文醜軍はまとまることができずに大混乱をきたし、
勝手に曹操軍と交戦している状態で、命令が上手く伝わりませんでした。
曹操は文醜を守っている兵が非常に少ないことを確認すると、
文醜に攻撃を集中させて彼を討ち取ります。
曹操は文醜を討ち取るとすぐに軍勢を率いて南阪を通り過ぎて、
決戦予定地である官渡(かんと)城へ退却していきます。
こうして袁紹軍の二枚看板と呼ばれる勇将は初戦で散ってしまうことになります。
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三国志ライター黒田レンの独り言
袁紹軍の二枚看板と呼ばれた顔良と文醜が討ち死にすると兵士達は大いに曹操軍を恐れ、
士気が下がってしまいます。
しかし袁紹は二将軍を失っても土地を取ることに成功したので、
あまり気にすることはありませんでした。
もし二将軍が初戦で討ち取られなければ、袁紹軍の攻撃力は非常に高いものであり、
兵の士気もかなり高かったでしょう。
このベストコンディションで曹操が篭城していた官渡城へ猛攻をかけられていたとすれば、
陥落していた可能性があったかもしれません。
また関羽はこの顔良を討ち取った時点で曹操軍から離脱して、
劉備の元へ向かっています。
参考文献 ちくま学芸文庫 三国志魏書1 今鷹真・井波律子訳など
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