ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・人事部」のコーナーです。
兄・孫策(そんさく)とは異なり、地元名士や豪族との融和を進め、
人事において優れた人材を起用して成功を収めた孫権(そんけん)。
孫権の人材起用のポイントは、能力が高いことか人柄が謙虚であることだったと伝わっています。
孫権が起用した人材で筆頭は魯粛でしょう。
魯粛(ろしゅく)は孫策とはやや距離を置いていたようですので、
孫権が家督を継いでからようやく孫家に協力するようになりました。
他にも諸葛瑾(しょかつきん)がいます。
孫権の姉婿の推挙で出仕しています。
江東の名士、陸家の当主である陸遜(りくそん)も孫権に代わってから仕えています。
呂蒙(りょもう)はその武勇を孫策に認められて別部司馬(副官)をしていましたが、
孫権の代になり重用されるようになっています。
人材の起用に関しては曹操に匹敵する才能を持っていたのが孫権でした。
しかしその人材起用のポイントは他にもあったのではないでしょうか。
関連記事:袁術の前をガン無視で通り過ぎた漢達が予想以上に多かったのでまとめてみた
徳川家康の人材起用
日本の戦国大名で有名なのが徳川家康です。
戦場で経験と実績を積み、巧みな戦略でやがて天下を統一します。
徳川家康の配下で有名なのが本多正勝ら徳川四天王、並びに三河の武士たちですが、
後に滅びた大名たちを積極的に起用しています。
例えば甲斐の武田家です。
一時は織田家によって滅亡した武田家ですが(その後、穴山家が嫡流と認められましたが)、
徳川家康が復興に力を貸しました。
武田家は徳川家康の息子を養子に迎え再興します。
同様に駿河の今川家。
今川氏真をはじめ、今川家は徳川家康の庇護のもと高家旗本として栄えます。
他にも織田家、大友家、六角家、一色家など高家として取り立てられ、
滅亡を免れた血統は多々ありました。
ちなみに忠臣蔵で有名になった吉良家もそうですね。
勢力の吸収
没落した大名を起用する意図は、その家臣たちを平和的に吸収するためです。
武田家の再興に力を貸すことで、徳川家康は武田家の強力な家臣団を手に入れます。
武田家最強と呼ばれた山縣昌景の赤備えは、
徳川家の井伊家に吸収されています。
井伊の赤備えはこの頃からです。
つまり徳川家康は個人の能力だけで人材起用をしたわけではなく、
効果的に勢力を拡大するという別の視点からも人材起用をしているのです。
【PR】三国志の武将に特化したデータベース「はじめての三国志メモリーズ」を開始しました
孫権に吸収された勢力
孫権が吸収した勢力に江東の名士であり、豪族であった陸家があります。
当主は陸遜でした。
陸家は以前に孫策の侵略を受けて盧江を追い出されたという経緯があります。
それ以来敵同士でしたが、孫権の代になって和解したわけです。
陸遜は亡き孫策の娘を妻に迎えています。
揚州で一大勢力を誇った袁術も皇帝を自称し滅ぼされていますが、
孫権はその子孫を家臣に加えています。
袁術の息子の袁耀(えんよう)です。
さらにその娘を孫権は自分の息子の妻に迎えています。
四世三公の名門・袁家は完全に孫権に吸収されたわけです。
他に、揚州の南で勢力を誇ったのが劉繇です。
皇族の出身で、「斉の孝王」の子孫である劉繇は正式な揚州刺史であり、
呉郡の豪族や名士に歓迎されていました。
しかし孫策の侵略を受けて西の豫章郡に逃亡しています。
孫権はその劉繇の息子である劉基を重用したのです。
孫権が呉王になると大農となり、帝位に即くと光祿勲に任じられています。
孫権も徳川家康同様、旧勢力の家臣団を効果的に吸収していったのではないでしょうか。
関連記事:そうだったの?呂蒙が後を託したのは陸遜では無かった!
関連記事:陸遜の死後、一族はどうなったの?呉の滅亡後、晋の散騎常侍に仕えた一族達
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
孫権や徳川家康が安定した地盤を築けた理由の一つにこの人材起用があげられます。
これは簡単なようでいて戦国時代では難しい起用だったのではないでしょうか。
裏切りも横行していますし、譜代の家臣の目もあります。
反乱を起こされる危険性もあるのです。
織田信長であれば即座に皆殺しにしている話でしょう。
孫策にもその傾向があったために呉郡の旧臣に暗殺されるような事態になったのではないでしょうか。
人を惹きつける魅力と器量があったからこそできた人事起用だったのかもしれません。
関連記事:忠義の士・陸遜に迫る!陸遜は呉でクーデターを起こすことはできたの?
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—