李傕(りかく)・郭汜(かくし)祭に登場する人々は、被害者の献帝を除けば、
弁護したくもなくなるような、残虐な悪党揃いでリアルアウトレイジなのですが、
どんな世界にも例外は存在するようで、これから紹介する段煨(だんわい)などは、
あの董卓(とうたく)の配下とは思えないようないい人でした。
そして、段煨の生涯は、人間良い事はするモノだなあとしみじみ思わせる
結末になっていたのです。
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この記事の目次
涼州武威郡の人、段煨忠明
段煨忠明(ちゅうめい)は、涼州武威郡に生まれます、生年は明らかではありません。
それ以前に名が伝わっているのは珍しいと言えるでしょう。
これは、段煨が後に魏に仕えて大鴻臚(だいこうろ)、光禄大夫(こうろくだいふ)に
任じられ、闅郷(びんごう)侯に封じられて位人臣を極めたからです。
ちなみに、段煨の同郷人には涼州DQN軍団の一人張済(ちょうさい)がいます。
孫堅の侵攻に備えて華陰に進駐した段煨
西暦191年、反董卓連合軍で実質的に動いたといえる群雄、
孫堅(そんけん)は、陽人城で呂布(りょふ)と胡軫(こしん)を撃破し、
副将だった華雄(かゆう)を捕えて縛り首にしました。
これに衝撃を受けた董卓は、孫堅を懐柔しようとし失敗すると
洛陽を焼き払い長安へと遷都してしまいます。
しかし、さらに孫堅が追撃することを恐れた董卓は華陰に中郎将の段煨を
配置して、東方の守りとしています。
同じように董卓は陜には牛輔(ぎゅうほ)を置いて反董卓連合軍に備えていました。
掠奪をせず地道に開墾をして自給自足していた段煨
「ないモノは奪えばいいんだよぉ!ヒャッハー!!」というのが、
涼州DQN軍団の傾向なんですが、段煨は奇跡的にそういう事をしませんでした。
彼は掠奪どころか、華陰では開墾して農地を広げひたすらに自給自足します。
やがて、董卓が呂布に殺されて、同僚の李傕・郭汜が長安に攻め込む事態になっても
段煨は、まるで動こうとはせず、董卓に言われた通りに華陰を死守します。
というより、董卓の仇討ちにも参加しない所を見ると、とっくの昔に、
董卓を見限っていたようです。
西暦195年11月 献帝の東遷の一行が通過すると知り歓迎に向かう
西暦195年の11月、献帝の一行が内戦で荒れ果てた長安を出発し、
東遷(とうせん:東に移動)する事になります。
この時点では献帝一行は洛陽ではなく、張済の本拠地、弘農へ向かっていましたが
それを知った段煨は、尊皇心が篤い人だったのか、是非、華陰で休んで頂きたいと
衣服などを携えてやってきたのです。
しかし、献帝の一行には、段煨と仲が悪い楊定(ようてい)が含まれていました。
その楊定を見た段煨は、献帝の前でも馬を降りずに警戒してしまいます。
楊定と仲が良い侍中の种輯(ちゅうしゅう)がそれを見咎めて
献帝に「段煨は帝に反逆しようとしています」と讒言、
さらに、段煨に献帝を奪われる事を警戒した董承(とうしょう)も楊定のサイドに立ち
「段煨の陣営に郭汜が700騎を連れて入ったようです」と献帝に嘘を言い
疑心暗鬼に陥った献帝は段煨の要請を断り、華陰を通過する事になります。
段煨、楊定と合戦 李傕、郭汜の援助を受けて撃破する
その途中、段煨は楊定と武力衝突を引き起こし、献帝一行は慌てて出発しました。
ですが、最期の最期まで、段煨の振る舞いには無礼な所は無かったようです。
楊定と戦っている途中、リベンジに燃える李傕と郭汜の軍が舞い戻り、
段煨に加勢して楊定を撃破、敗れた楊定は荊州に落ちのび行方不明になります。
ここで、段煨は思わぬ人物を配下にする事になります。
献帝に印綬を返上して華陰に残った賈詡(かく)でした。
段煨に恐れられている事を知った賈詡は張繍を頼る
段煨は賈詡を厚遇しますが、あまり信用してはいなかったようです。
なにしろ、その時点でも賈詡は、牛輔、李傕と主君を変えていますし、
その神算鬼謀は底知れないと言われた策士、いつ自分の地位を脅かすかと
不安になったのでしょう。
それを察知した賈詡は、宛に割拠した張繍(ちょうしゅう)を頼り段煨の元を去ります。
この辺りの逸話を見ると、段煨の器量は小さく、群雄として天下を争うには、
力不足だった事が窺えます。
しかし、賈詡を恐れて好待遇を施しただけあり、賈詡が置いていった
賈詡の家族の面倒は、今後の事も考えて手厚く見ていました。
そのあたりの人を見る目は充分にあったのです。
謁者僕射の裴茂に従い、李傕の誅滅に力を貸す
西暦198年、献帝を保護した曹操(そうそう)は、謁者僕射(えっしゃぼくや)の
裴茂(はいぼう)に軍勢を与えて、李傕一味の討伐を命じます。
その途中で段煨は華陰から裴茂に従い、共に李傕・郭汜を討伐しました。
コツコツと華陰を開発していた涼州騎兵らしくない段煨は、その後曹操に帰順。
曹操も段煨の業績を評価して、大鴻臚、光禄大夫の地位に上ります。
これは九卿であり、高級官僚と言えるポストでした。
段煨は、赤壁の戦いの翌年、西暦209年に死去していますが、
李傕、郭汜、張済、董承のような人々が全て、終わりを全うしていないのに比べ
万事に慎重で残虐な振る舞いの無かった段煨は、穏やかな最期を迎えました。
[李傕郭汜祭]kawauaoの独り言
段煨は、涼州人は涼州人でも、一定の教養を持つ人だったかも知れません。
曹操に帰順してから与えられた大鴻臚のポストは外国使節の応接の仕事で、
やはり教養がないと務まらないからです。
涼州人にも皇甫酈(こうほり)のような知識人もいたので、
董卓に仕えていたとはいえ、元々が山賊に毛が生えたような李傕や
郭汜のような連中とは、段煨は身分階層が違っていたのでしょう。
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