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張飛が『春秋左氏伝』を読んでいた!?中国発インテリ伝説

2018年7月24日


 

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張飛

 

(しょく)の創始者劉備(りゅうび)の弟分、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)三国志演義(さんごくしえんぎ)の中では、関羽は劉備の軍略の相談にのるほどの知性派武将、張飛はすぐに短気をおこして暴れる脳筋武将として、対照的な描かれ方をしています。

 

北方謙三 ハードボイルドな張飛

 

そんな脳筋イメージの張飛がなんと儒教の経典『春秋(しゅんじゅう)』を読んでいたという話があるんでございます!

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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張飛の故郷、涿州張飛店

涿州張飛店

 

張飛のふるさとは幽州涿郡(ゆうしゅうたくぐん)、現在の河北省涿州市です。涿州から西南十里の地点にある張飛店(またの名を忠義店)という村が、張飛の家のあった場所だと言われています。張飛の家といえば、劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたという桃園(とうえん)がある場所ですよね!

 

酒癖の悪い張飛(桃園三兄弟)

 

ふうむ、涿州の市場で知り合った三人が、ちょっと俺の家まで来て酒でも飲みましょうということで一時間も歩いて張飛の家まで行ったんでしょうかね。三国志の時代の十里はおよそ4km。googleマップで見る涿州と張飛店の間の距離もそのくらいです。

 

 

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ちなみに、北京の天安門広場からは地獄の歩行訓練にちょうどよさそうな距離です。街道を通って50~60kmでしょうか。張飛店には古くから立派な張飛廟(ちょうひびょう)があったそうですが、文化大革命で取り壊されたそうです。残ったのは肉をさばいて暮らしていた張飛が生肉を貯蔵するのに使っていたという古井戸のあとと、石碑だけだったそうです。現在建っている張飛廟は1991年に再建されたものです。

 

 

故郷・涿州の博物館のホームページにある仰天情報

 

涿州博物館のホームページにある「张飞与张飞店」という紹介文によれば、張飛の家は決して貧しいほうではなく、張飛は七歳から家庭教師をつけられていたそうです。小さい頃から気性が激しかった張飛。何人もの家庭教師が張飛に腹を立てて出て行くか、張飛によって追い出されました。張飛の母方のおじの李志(きし)という人が王養年(おうようねん)という武将を張飛の先生として推薦(すいせん)したところ、張飛はやっと心服したそうです。

 

知略と武略に通じていた王養年は張飛に文武両道の手ほどきをし、張飛は十三歳で『春秋』を読み、『左氏伝(さしでん)』を参照し、『孫子の兵法』に精通し、武芸にも熟達(じゅくたつ)したそうです。

 

 

実は頭がイイ賢い張飛

 

……えええ~、これじゃあ完全に知性派武将じゃないですか!?三国志演義の、徐州で酒飲んで城を失った粗忽(そこつ)な張飛のおもかげはどこにもありません!

 

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北伐の真実に迫る

北伐  

 

 

書画にも造詣が深いキラキラ武将、張飛

 

張飛は勉強をして賢くなるにつれ、世の中のありさまに不平を覚えるようになり、天下をうち平らげて民衆を救うのだと息巻くようになったそうです。張飛のゆくすえを心配した王養年は、情操教育として張飛に書道と美人画を練習させ、三年で名人の域に達したそうです。張飛の書法には独特のスタイルと風格があり、張飛の書いた摩崖(まがいじ)(崖や大石に書き記した文字)は後世の人たちに賞賛されたそうです。清代の文人・紀昀(きいん)(『四庫全書』を編纂した人)は次のように詠んでいるそうです。

 

 

慷慨横戈百戦余、桓侯筆札定然疏。哪知拓本摩崖字、車騎将軍手自書。

(意味:戈を持って奮戦していた張飛のことだから字なんてヘタクソなんじゃないか

と思いきや、拓本になっているこの素晴らしい摩崖字は張飛が書いたものなんですぜ!)

※桓侯は張飛の諡号(死後におくられた号)、車騎将軍は生前の役職、哪は疑問代詞

 

 

張飛の絵画は漢代の画家曹不興(そうふこう)に比肩しうるほどだったそうで、『歴代画征録』に「張飛:漢の涿州の人。美人画の名人」と記載されているそうです。(『歴代画征録』という書物が確認できないのですが……)

 

 

三国志ライター よかミカンの独り言

三国志ライター よかミカンの独り言

 

涿州博物館の記事の全訳を私の個人のサイトの雑記ページに掲載しておりますのでご興味のある方はそちらもご参照下さい。(涿州博物館におうかがいメールを送ったうえで掲載しています)

 

そのサイトで連載している小説『ショッケンひにほゆ』では張飛の元部下という人物を通して間接的に張飛の人物像を描くという試みをしておりますので、そちらもご興味があればご覧いただけると嬉しいです。(宣伝)さて、張飛インテリ説。故郷・涿州の博物館で紹介されている逸話ということで、地元出身の有名人をありったけ良く書いているのではないかなと一瞬思ったのですが、涿州博物館以外でも同様の情報を載せているサイトはたくさんありました。中国では有名な話なんでしょうか。知らなかったです!

 

画像を検索していたら、張飛の書といわれる摩崖字として「張飛立馬銘」(または八蒙摩崖)というものが出てきました。真筆かどうかはまだ考証されていないそうですが、見たところ、三国時代っぽい楷書(かいしょ)のはしりのようなくっきりとした力強いタッチで端正に書かれており、もし本当に張飛がこんな字を書いていたとしたら惚れてまうやろ!という印象を受けました。

 

朱然

 

魏の鍾繇(しょうよう)や呉の朱然(しゅねん)の書も画像検索で出てきますので、見比べてみて下さい。文字だけで “いい男ランキング”をしてみても面白いかもしれません!

 

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よかミカン

よかミカン

三国志好きが高じて会社を辞めて中国に留学したことのある夢見がちな成人です。 個人のサイトで三国志のおバカ小説を書いております。 三国志小説『ショッケンひにほゆ』 【劉備も関羽も張飛も出てこない! 三国志 蜀の北伐最前線おバカ日記】 何か一言: 皆様にたくさん三国志を読んで頂きたいという思いから わざとうさんくさい記事ばかりを書いています。 妄想は妄想、偏見は偏見、とはっきり分かるように書くことが私の良心です。 読んで下さった方が こんなわけないだろうと思ってつい三国志を読み返してしまうような記事を書きたいです!

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