法律による国家の統治を唱えた法家の思想。法家の立場を取った多くの人たちが歴史にその名を残しています。『管鮑の交わり』の故事で有名な管仲(かんちゅう)や、『孫子』の孫武や孫臏とならんで兵家としても知られた呉起なども法家の人物として知られています。ここでは、法家の成立に大きく貢献した2人の人物を紹介しましょう。
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この記事の目次
秦帝国の礎を作った商鞅(しょうおう)ってどんな人?
商鞅(しょうおう)は本名を公孫鞅と言います。魏の国の宰相であった公叔座の食客となりますが、魏の恵王は商鞅を軽んじていました。公叔座の死後、魏を離れた商鞅は秦の君主、孝公に謁見、三度の謁見を経て孝公の信任を得ることに成功して秦の国政改革に乗り出します。
商鞅が秦国で最初に行った仕事
商鞅は法治主義で国を支配するためには、まず人民に法を信用させることが必要だと考えました。彼は城の南門の前に高さ三丈(約25メートル)もある大木を植えた上で、『この木を北門に植え替えた者には十金を与える』という布告を出しました。しかし民衆はこの布告を怪しみ、誰も木を移植しようとはしません。そこで商鞅は賞金額を」五十金に吊り上げました。すると、ある人物が木を植え替えます。商鞅は彼に五十金の賞金を支払い、人民の信頼を得ることに成功しました。
商鞅は二度に渡って法を改正し、国政改革を推進します。郡県制を敷き、度量衡(物の量、重さ、長さの単位)を統一するなど合理的な制度改革によって、秦はその国力を強大化し、戦国七雄とよばれる大国に成長することになります。
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恨みと反感を持たれてしまった商鞅
国政改革を成し遂げた商鞅ですが、一方ではその強権的な進め方に恨みと反感を示す者もいました。商鞅を重用した孝公が没すると、商鞅は彼に恨みを抱いてきた者たちによって謀反の罪を着せられます。何も持たないまま都から落ち延びようとした商鞅でしたが、夜になって宿に泊まろうとすると、宿屋の主人に『法律で旅券を持たないものは泊められないのです』と断られてしまいます。
商鞅は『法律を徹底したことがこんな結果をもたらそうとは』と、大いに嘆いたとされています。結局、商鞅は挙兵しますが討伐軍に敗れて戦死し、その死体は見せしめとして引き裂かれ、晒しものとされてしまいました。商鞅によって強大化した秦はやがて全土統一を果たします。
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不遇な生涯を送った韓非(かんぴ)ってどんな人?
韓非は戦国時代の末期の人物で『韓非子』を執筆したことで知られています。『韓非子』は性悪説に基づく厳格な法治主義を説いた書物として知られ、後世にも大きな影響を与えることになります。韓非には幼少期から重度の吃音があり、そのせいで親類から見下されていました。しかし、彼には文才があり、学問を好みました。
韓非は後に秦の宰相となる李斯(りし)と共に、性悪説を唱えたことで知られる儒家の筍子に師事したとされています。
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