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夷陵の戦いで受けた蜀の損害とは?再び天下に出ることはなくなった理由

2019年4月16日


 

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劉備の黒歴史

 

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)と言えば蜀軍(しょくぐん)が呉軍に大敗北し、大きな損害を受けた戦いです。ではその大きな損害とは、一体どれくらいのものだったのでしょうか。

 

今回は蜀軍が受けた損害をまとめ、どれだけその損失が後々まで響くようになったかを説明したいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦死した人たちとその損害

討ち死にする黄崇

 

夷陵の戦いで一番大きかった被害と言えば、人的被害です。7名の将軍たちが戦死しただけでなく、6名が()に降伏しています。

 

馬良って何した人だっけ

 

この6名というのは当時30代であった馬良を始め、殆どがまだまだ働き盛り、これからの蜀を率いていく存在となる人たちでした。

 

亡くなる張飛将軍

 

蜀と言えばこの時点で劉備(りゅうび)は60代、しかも夷陵の戦いまでに関羽(かんう)を始め、張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)黄忠(こうちゅう)と言った名のある武将たちが既に亡くなっています。そのため後任が必要だったのですが、それをここで失ってしまったのです。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

人的被害はそれだけではありません。将軍が亡くなっているということは、その部下も多くが死んでいるということ。

 

鄧禹と兵士

 

「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」「その死者は万を数えた」と明確な数は表記されてはいない者の、多くの人が亡くなっているのです。このことから、夷陵の戦いでの人的被害は凄まじいものであったと分かります。

 

 

 

荊州の奪還ならず

敗れる関羽雲長

 

樊城の戦い(はんじょうのたたかい)で蜀は荊州(けいしゅう)を失いました。山奥に在る蜀が中原に出陣するには、引いては天下を取るべく戦うためには荊州の奪還は最重要とも言えます。しかし実際には夷陵の戦いで大敗北し、再びの荊州の奪還は不可能となってしまいました。

 

関羽

 

これは既に蜀が天下を争うための基盤を失ってしまったとも同義。それほどまでに蜀にとって荊州は大事な土地だったのです。実際に荊州を失ったのは夷陵の戦いの前の樊城の戦いですが、再戦が不能までに落ち込んでしまった夷陵の戦いでの敗北は、荊州奪還失敗という損害にも繋がると思います。

 

英雄の死因

 

 

夷陵の戦いは、私的に起こされた戦争だった?

魔のトリオ攻撃が劉備を追いつめる

 

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で敗北した劉備(りゅうび)は何とか逃げ帰りますが、蜀まで帰還した訳ではありません。

 

亡くなる劉備に遺言を聞く諸葛亮と趙雲

 

その手前にある白帝城(はくていじょう
)
に戻って、蜀まで戻ることはなくそのまま亡くなります。これに対して劉備は実は既に死んでいたけど誤魔化した、などの色々な考察がありますが、筆者としては蜀に帰って民衆や残っていた将たちに合わす顔がなかったのではないかと思います。

 

劉備玄徳が眩しい理由 三国志

 

夷陵の戦いの前に、劉備は皇帝(かんこうてい)を名乗ります。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

魏皇帝の曹丕(そうひ)禅譲(ぜんじょう)ではなく、献帝(けんてい)を殺害して帝位(ていい)を奪った、漢王朝復興のために曹丕と戦うという誓いを立てて皇帝となったのです。その皇帝となるまでには色々な思惑があったと思いますが、皇帝となった後でいきなり始めたのは魏との戦ではなく関羽(かんう)の敵討、これは私的な戦いと言わざるを得ません。

 

劉備

 

皇帝権限を使って無理やり起こした夷陵の戦い、そこで大敗北、人的被害は限りなく、荊州の奪還もならず…これは、かなりの民衆の信頼を失ってしまった結果となったと思われます。憶測ですが民衆の信頼を失った、少なくとも劉備はもうそう考えていたとするなら、それもまた夷陵の戦いでの損害と言えるのではないでしょうか?

 

はじめての漢王朝

 

 

大きく爪痕を残した孫呉の虎たち

陸遜

 

夷陵の戦いで、()は勝ちました。この時の呉の指揮官は、陸遜(りくそん)。彼の凄さは、ここまでの多大なダメージ、大損害を蜀に与えたことにあります。

 

陸遜

 

少し考えるなら、攻めてきた蜀を追い返すだけで十分だったのです。夷陵の地を守った、それだけでも十分な功績だと思います。しかし陸遜は違いました。

 

陸遜

 

陸遜は蜀をわざと呉の奥深くまで進軍させ、大博打のような奇襲から一気にその勢力を根こそぎ削ったのです。そして蜀は、呉と戦う力を失くしました。このことは後の魏と呉の戦いである、三方面作戦でも大いに効果を発揮します。

 

陸遜

 

陸遜(りくそん)がどこまでを見据えていたかは凡人である筆者に見通すことはできませんが、この戦いだけでなくその先の先まで見据えて、考えて戦ったならばやはり陸遜という武将は非凡な人物、陸遜伝が伝えられるだけの人物であると思います。

 

蜀としては皮肉なことに、夷陵の戦いで蜀の受けた損害は陸遜の非凡さもまた、後世に伝えているのです。

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

夷陵の戦いでは、蜀が大敗北しました。その敗北はとてつもなく大きなもので、蜀の力を根こそぎ奪ってしまったものとも言えます。

 

陸遜

 

実際想像してみるだけでも、多大なダメージですよね。蜀の敗北の大きさを知ると共に、呉の強さを知ることのできる戦い、それが夷陵の戦いではないかと思います。

 

参考記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/夷陵の戦い

 

関連記事:魏延がいれば陳倉の戦いは勝てた?それとも負けた?史実の北伐を解説

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夷陵の戦い

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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