呉(222年~280年)の孫権について、読者の皆様が思い浮かべるのは、立派な髭を生やしていることだと思います。横山光輝氏の『三国志』もそうですし、ゲームの大半でも孫権は立派な髭を生やしています。
そこで今回は孫権の髭について、正史『三国志』をもとに解説しようと思います。
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孫権は紫の髭だった?
まずは、孫権は本当に髭を生やしていたのか調べないといけません。マンガの創作の可能性もあるかもしれません。しかし孫権は本当に髭を生やしていました。
建安20年(215年)に孫権と曹操軍の張遼が合肥で戦った時の話です。単騎で突入した張遼は、1人の敵将を目撃します。その人物は背が高くて、足が短くて、髭は紫で、弓の上手い人物でした。
単騎で突入でしたのに凄い観察力です。読者に対しての解説ありがとうございます、張遼。突っ込めば、不自然な個所はいっぱいありますが、これ以上突っ込んでも話が始まらないので先に進みます。後で捕虜に聞いてみると張遼が見た敵将は孫権だったと判明します。
「なんということだ、そうと分かっていたら捕らえていたのに」と張遼は後悔しますが、後の祭りでした。ちなみに先ほど、「紫の髭」と書きましたが、この紫は「あか」と読むのです。「あか」と言っても、「赤」ではなく「茶色」に近いと思います。
孫権の髭フェチの朱桓
朱桓という人物が孫権の髭が好きだったことが正史『三国志』に記されています。朱桓は自分の屋敷で雇っていた召使いが、ろくろ首だったことで有名な人物です。
話が逸れたので戻します。朱桓がその昔、遠くの任地に赴くことになった時に孫権が見送りました。その時に朱桓は「孫権様、髭を触らせてください」と頼みました。
「分かったよ」と言って孫権は朱桓に触らせました。
この話はもうこれで終わりです。
筆者の素直な気持ちとしては、孫権が朱桓に壁ドンするシーンが見たかったのですけど・・・・・・・
「つまらないギャグはいいから、史実を言え!」読者の皆様から怒られたので話を続けます。
孫権は異民族
上記のような独特な風貌をした孫権ですが、それはなぜでしょうか。筆者が考えますところおそらく、孫権は漢民族ではなく異民族だったと考えられます。
実は孫権が統治していた呉には昔から、山越という山岳地帯に住む異民族がいました。
民族に関しての詳細な点は不明ですが、呉は孫策から孫権の時代にかけて山越の心服に成功させています。孫一族が山越とのハーフだったと考えたら、心服作戦が上手にいっていたことに説明がいきます。
また、蜀(221年~263年)の章武3年(223年)に劉備の死に乗じて、益州の豪族の雍闓や孟獲が反乱を起こしました。
これは小説『三国志演義』では曹丕の仕業になっていますが、史実では孫権が裏で糸を引いていたのです。
さらに遼東の公孫淵が帰順したいと言った時も、喜んで迎え入れたりもしています。
残念ながらこれは公孫淵の裏切りにあったり、筆頭家老の張昭がストライキするなどの事件が起きたりして、ろくでもない結末になります。
孫権はこのように、異民族に対しての政策が多かったことが分かります。やはり、孫権は異民族とのハーフだったのでしょう。
三国志ライター 晃の独り言
以上、孫権の髭から孫権異民族仮説を立てました。山越統治に関してはすでに記述しましたが、この統治は孫策も孫権もかなり苦労したようです。
孫策がなかなか北方に進出出来なかったのは、この統治に苦労したのが原因だったようです。
※参考文献
・宮川尚志『六朝史研究〈政治・社会篇〉 (1956年)』
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