三国時代を終わらせて中華の統一王朝を実現させた司馬炎。彼は父・司馬昭が蜀を滅亡させていたので、中国のほとんどを手中に収めていました。それなのに三国時代最後の大国・呉を滅亡させるまでにかなりの時間を要しています。
すぐに呉を滅亡させる力を持っていたのにどうして時間がかかったのでしょうか。
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晋帝国建国
司馬炎は司馬昭の跡を継いで晋王の位に就任。
その後司馬炎は魏の皇帝・曹奐から皇帝の位を譲られ、王から皇帝の位へ就任し、晋帝国を作り上げます。この時点で晋帝国は魏の領土に加え、蜀を併合していた為、中国のほとんどを手中に収め、三国時代の呉の領土だけが晋の国土となっていない地域でした。
晋は中国のほとんどを手にしていたにもかかわらず、中華統一を成功させたのは、司馬炎が皇帝の位に就任してから15年後でした。どうして晋が天下統一するまでに15年もの歳月を要したのでしょうか。
帝国の制度作りが大変だったから??
司馬炎はどうしてすぐに孫呉を討伐して中華統一を図らなかったのか。その理由の一つとして国家の体制を整える為に多くの時間が割かれた事が挙げられます。司馬炎は魏の制度を踏襲しつつ、晋特有の新しい法律を作成しています。
例えば魏は皇族間の力がほとんどなかったため、司馬家が台頭した時、皇帝を助ける皇族が居ませんでした。そのため司馬炎は皇族たちを王へ就任させて、領土と兵力を与え、皇帝に何かあった時に助けてくれるようにします。
また農業政策に力を入れ、占田制・課田制と言われる独特な制度を作り上げます。このように新しい法律を作っていた為、呉を討伐して天下統一するのに時間がかかった可能性があります。
しかし司馬炎が呉を討伐して天下統一を速やかに行えなかった理由はほかにもあります。
権力争いと後継者問題が絡む
晋帝国が樹立した時、司馬炎は40歳以上だったそうで、次世代の皇太子を冊立してもいい年齢でした。司馬炎は自分の跡を継ぐ人物として司馬衷を皇太子にします。だが司馬衷はどうしようもないポンコツで、重臣達からも見放されていました。
そのため晋の名将・羊祜(孫呉討伐案を計画し、提案するも途中で死亡)や杜預らが中心となって、司馬炎の弟・司馬攸を皇太子にするべく画策。彼らは司馬攸が孫呉討伐の総司令官として任命され、孫呉の討伐を果せば、司馬炎の皇太子として申し分ないであろうと考え、司馬攸を孫呉討伐の総司令官として任命してくれるように司馬炎へ要請します。
だが司馬炎の側近・賈充が孫呉討伐へ大反対します。どうして賈充は孫呉討伐へ反対したのか。
賈充が孫呉討伐に反対したのは司馬攸が総大将になって孫呉を滅ぼすと、その手柄で司馬攸が皇太子になり側近である羊コや杜預が登用され自身が失脚する事を恐れた為です。
賈充は自らが握った権力を手放さない為、杜預や羊祜らの計画を頓挫させるため、彼らの孫呉討伐作戦に反対していました。これら重臣たちの権力争いと後継者問題が絡んだ事が原因で、孫呉討伐作戦が大幅に遅れることになったのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
結局司馬炎は杜預や羊祜らの孫呉討伐案を却下し、賈充を呉討伐の総大将へ任命。
賈充は呉討伐の総大将に就任することを嫌がりましたが、司馬炎の圧力に抗えず、孫呉討伐の総大将を拝命。その後賈充率いる孫呉討伐軍が呉の皇帝・孫晧を降伏させて、天下が統一されることになります。
もし司馬炎が羊祜や杜預らの孫呉討伐案を採用し、司馬攸を孫呉討伐軍の総司令官に任命していればどうなったのでしょうか。まず司馬攸が司馬炎の皇太子任命されることになったのは間違えないと思います。
そして司馬攸が二代目晋の皇帝へ就任すれば、国内を安定させることになったと思われます。
■参考文献 SB新書 三国志「その後」の真実 知られざる孔明没後の後伝
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