曹操・劉備・孫権。3人の中で年齢が20歳以上も離れているせいなのか、どうしても影が薄く感じるのが孫権です。
しかし、史実の孫権はインパクトのあることをしています。今回は孫権の晩年に起きた公孫淵事件と張昭屋敷放火事件、そして彼が実は苦労人であったことを再確認します。
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事件の発端 公孫淵の帰順
さて、何が起きたのか見ていきましょう。嘉禾元年(232年)に遼東王の公孫淵が「呉に帰順したい」と申し出ました。公孫淵は「王」ですけど自称です。後漢(25年~220年)末に公孫度という男が遼東で独立王国を建国したのが始まりで公孫淵は孫に該当します。
遼東は陸路で魏(220年~265年)、海路で呉と繋がっているので公孫淵は両国と繋がりを持つことで安全を保つことにしたのです。公孫淵からの帰順の申し出を聞いた孫権は大喜び。早速、お礼の使者を派遣することに決定します。
ただし、この時に長年仕えている重臣の張昭が「公孫淵は信用できません」と待ったをかけました。でも、孫権は意見を無視して使節団を派遣します。
張昭のストライキと孫権の放火
ところが遼東に派遣された呉の使節団の大半が公孫淵に殺害されます。
これはどういうことでしょうか?
一説によると(1)魏からの政治的圧力。(2)最初に派遣された公孫淵側の使者が呉の様子を見て帰順するべきでないと公孫淵を説得した。
この2点が考えられています。筆者は2つとも正解と思っています。
生き残った使節団のメンバーは呉に帰ると孫権にありのままを報告しました。メンツを潰された孫権は出陣を決意しますが、陸遜と薜綜が説得したので思いとどまります。さて、孫権から使節団派遣を反対された張昭はどうなったのかといいますと・・・・・・
屋敷でストライキ中でした。孫権が公孫淵に使者を派遣すると自分の意見が入れられなかったことに腹を立てて、病気と偽って出仕拒否をします。激怒した孫権は張昭の屋敷の外門を土で塞ぎます。負けじと張昭も内門を土で塞ぎました。
使節団が殺されると孫権も屋敷まで謝罪に行きますが、張昭は返答無しです。仕方ないので孫権は屋敷の門に火を放ちます。孫権の考えでは、「これで出てくれるかな?」と思ったのです。だが、それでも張昭は出てくれないので、孫権は消火します。
と言ってもさすがに、これ以上のストライキは無理だったのか間もなく息子に両脇を抱えられて張昭は屋敷から出てきました。孫権は「このたびは申し訳ございません」としっかりと謝罪して、一緒に馬車で宮中に戻りました。
孫権は苦労人!?
ところで、なんで孫権は重臣の張昭の意見に逆らったのでしょうか?筆者は理由があると考えています。孫権と張昭の関係について話します。張昭は孫権の兄の孫策から招かれて部下になった人物であり、孫策は死ぬ間際に孫権の後見役として張昭を推薦しました。
ただし孫権からすれば彼は、うっとうしい存在でした。
こんな話があります。孫権は虎狩りが好きなので行こうとすると張昭は「そもそも君主というものは・・・・・・」と小難しい話を始めます。孫権は「若くて考えが足りませんでしたスイマセン」と謝ります。
またある時は、孫権が部下と一緒に宴会場で酔いつぶれるまで飲み、よせばいいのに孫権は「今日は宴会場が落ちるまで飲むぞ!」と口をすべらせます。ところが張昭は1人だけは嫌な顔をしています。
「みんな楽しんでいるんだぜ。なんでお前だけ怒っているんだ?」と孫権が尋ねると、張昭は「その昔、殷の紂王が酒の池を作って宴会をした時も楽しんでいると言いました。悪いことをしたとは言いませんでした」と嫌味を述べます。場が冷めたので、そこで宴会は終了となります。
孫権と張昭の関係は、まさに水と油です。孫権からしてみれば、「俺はいつも頑張っているだろう!なんで分かってくれないんだ!」と思っていたのでしょう。公孫淵の時の意見の対立は、そんな感情のもつれから来たものではないでしょうか?
そうしてみると、孫権もかなり苦労しているとお察し致します。
三国志ライター 晃の独り言
以上が孫権の晩年の事件でした。筆者は孫権と張昭の2人が屋敷の門を土盛りするシーンが、なんとなくかわいい思い笑ってしまいました。やっていることがまるでコントですよ(笑)例えるのなら「志村けんのバカ殿様」のバカ殿と爺です。
でも、実際に間近で見ていた部下たちはきっとドン引きしたでしょうね・・・・・・
孫権はストッパーである張昭が嘉禾5年(236年)に亡くなると、ワンマン政治を行いますが残念なことにそれはプラス方面に行かなくなります。また、それは別の機会に話します。
※参考文献
・大川富士夫「孫呉政権と士大夫」(初出1969年 のちに『六朝江南の豪族社会』(雄山閣 1987年所収)
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
・渡邉義浩『図解雑学 三国志』(ナツメ社 2000年)
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