魏・呉・蜀の三つの国が中国の覇権を争って戦う三国時代と呼ばれるのは『はじめての三国志』の読者の皆さん当然ご存知かと思います今回はこの時代よりも少し前、群雄が割拠していた時代。
多くの武将や政治家などは色々な願いをもって生きていましたが、今回この時代に登場した一人の政治家を紹介したいと思います。その人物の名前は婁圭という人ですが、この人は何を願っていたのでしょうか。
「婁圭 人物像」
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友人たちにバカにされる婁圭
婁圭は青年時代、大きな願いを持っており、その願いを友人たちと集まった際に披露します。彼の願いは「数万の軍勢を率いて後世に名を残すことだ」と友人たちに語ります。すると友人たちは「現在一人の従者も一匹の馬もいないのに何言ってんだ。」とバカにされてしまいます。
このように婁圭の願いは誰にも理解されないほど、大きくてちょっと場違いな願いを持っていました。
夢を叶える婁圭
黄巾の乱以降後漢王朝は乱れ、董卓が皇帝を握って専権を振るいますが、彼もまた義理の息子・呂布に殺害されてしまいます。董卓死後、各地の群雄たちは各々の勢力を拡大するため、争っていました。
例えば河北は袁紹や公孫瓚、黒山衆などの勢力が争っていました。また南に目を向けると荊州を統治していた劉表と袁術などの勢力が自分の力を拡大するため激しく対立。婁圭はそんな中、青年のころの夢をかなえ、小さいながらも兵を率いて群雄として独立することに成功します。
ですが、婁圭の夢は長く続くことなく終わってしまいます。
王忠に敗北する婁圭
曹操の武将の一人・王忠。彼は若い頃、亭長と呼ばれる小役人に就職していましたが、長安近辺が乱れていた為、仲間を引き連れて安全な地域へ逃亡します。婁圭は長安近辺から逃亡してくる人々を受け入れて、自らの勢力を拡大する計画を立案し、迎えに行きます。
ですが、この婁圭の計画は大失敗に終わります。長安近辺から逃れてきた王忠は婁圭の配下になることを嫌がり、彼らを受け入れようと迎えに来ている婁圭軍を迎撃。婁圭は王忠軍の突然の攻撃に狼狽してしまい敗北し、そのまま統治していた地域をほっぽり出して逃亡します。こうして婁圭の夢はあっさりと敗れてしまいます。
曹操の重臣へ
王忠の攻撃を受けてこの機会に叶えた夢を壊された婁圭。彼はその後曹操に拾われて仕えることになります。婁圭は曹操から重用され、国家に関する事柄や軍事に関する事の会議には必ず出席して意見を述べていたそうです。
例えば荊州の劉琮は曹操へ降伏する旨を伝えてきます。曹操の配下達は劉琮が偽って降伏してきたのではないかと疑念を持っていた為、婁圭へ相談。婁圭は曹操へ「彼の降伏は偽りではなく、本心からの降伏だと考えます。」とアドバイスします。
曹操は彼のアドバイスを受けて、劉琮の降伏を受け入れることにします。また婁圭は曹操が馬超を討伐する戦に従軍。
馬超軍は渭水に曹操軍を展開させない為、度々突撃して陣営構築を妨害していました。婁圭は曹操軍が陣営を作ることができない状況を危ぶみ、曹操へ「現在気温がとても低い日々が続いています。そのため砂の城壁を作って水をかければ、一晩で城を作ることができるでしょう」と進言。
曹操は婁圭の進言を採用して、彼の言う通り砂の城壁を構築した後、水をかけて一晩待つことにします。すると翌朝砂の城壁にかけた水が凍って、頑丈な城壁が完成。このように婁圭は曹操へ色々な進言をして重臣となって活躍した政治家です。
三国志ライター黒田レンの独り言
婁圭は曹操に重く用いられていきます。その後婁圭は冀州へ赴任し、曹操が車に乗って息子達と一緒に遊びに行く際、彼もたびたび曹操に呼ばれてお供をする事がありました。
婁圭は曹操と彼の子供達と一緒にお供をしたある日、曹操の側近へ「曹家の親子はこのような楽しみを味わったことがあったのかな」とこぼしてしまいます。曹操の側近はこの言葉を流せばよかったのに、曹操へ報告してしまいます。
曹操は婁圭がこぼした言葉を聞いて「自分たちを批判してバカにしている」と激怒。その後婁圭を殺害してしまいます。曹操の重臣として活躍していた婁圭ですが、少し油断をしてなれなれしい言葉を発してしまったのか。
それとも単純に思った事をこぼしてしまったのか。一体どっちなのかわかりませんが、一つ言えるのは「口は禍の元」の諺が婁圭の発言にそのまま当てはまるという事です。
読者の皆さんも発言には気を付けてくださいね。
■参考文献 正史三国志魏書
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