三国時代の人々だって原始の時代ではないのですから当然、服を着ています。それは、絵や壁画から確認できますが、では絵や壁画からは見る事が出来ない、当時の人々の下着は、どうなっていたのでしょうか?
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この記事の目次
三国時代のブリーフ、特鼻褌(とくびこん)
三国時代の下着で、ブリーフにあたるものは、特鼻褌と言いました。ただ、腰の回りを覆う布のようなもので、名前の由来は、男性の局部が、子牛の鼻のように見える事から名づけられたようです。特別な締め方がありそれで局部が強調されて子牛の鼻のように見えたのか具体的な事は分かりません。ただ、貧しい農民などは、この特鼻褌一丁で野良仕事をしていたと言われますから、下着と同時に野良着でもあったという事のようです。
現代まで伝わる、袴(はかま)
特鼻褌とは別にズボンのような下着もあったようで袴(はかま)と呼ばれていました。しかし、その形状は、袴というより股引(ももひき)に近いものです。この袴の特徴は股間とお尻の所にパックリと切れ目が入っている事で、それにより、大小の用が足しやすいように工夫されています。現在でも中国では、子供服でお尻の所がパックリ空いているものがありますが、どうやら、この服の原型が、この袴であるようです。
三国時代のスカート、でも名前は褌(ふんどし:こん)
特鼻褌は兎も角、局部とお尻が見えてしまう袴では、流石に外をうろうろするわけにはいきません。そこで、下着の上から円筒形の巻きスカートを重ねていました。これを褌(ふんどし:こん)と読んでいたようです。褌は、胸下からヒザの丈があり、さらにこの褌の上から上着である、袍(ほう)や深衣(しんい)を羽織りっていたようです。上着の裾は褌の中に入れて、上から帯で締めつければ、三国時代の普段着の完成になります。
あくまでもこれは、普段の服装
ただ、これらの服装は、あくまでも普段着であり、正装や、役人の衣装、或いは、軍装となると、これとは全く違う服装がありました。現在よりも三国時代の方が衣服に関しては色々面倒くさかったかも知れません。
三国時代の下着から見えてきた劉備(りゅうび)の脾肉(ひにく)の嘆(たん)
さて、三国時代の下着を調べていて、ふと思い当ったのが劉備の脾肉の嘆です。脾肉の嘆を簡単に説明するとこんな感じです。
「私は元々は筋肉質で体も締まっていたのが荊州の劉表(りゅうひょう)殿を頼ってからは、これという戦もなく馬に乗る事もなくなった。たまたま、宴会途中でおしっこの為にトイレに立つと太股に肉がついているではないか。これでは馬に乗る事も出来ない、ああ、衰えたものだ。」
つまり劉備が自分がデブになった事を嘆く詩です。しかし、よくよく考えると、おしっこする時には、お腹は見えますが、太股までは見えませんよね?なので、どうして劉備が太股に肉が付いた事を確認できたのか分かりませんでした。
ですが、劉備が特鼻褌を履いていたと考えたらどうでしょう?おしっこがかからないようにスカート状の褌を高くまくしあげるわけですから、必然的にお肉でプルプルした太股の肉が見えるではないですか!!
※これが袴なら、両足は隠れるので太股は見えません。と言う事は、劉備は特鼻褌を下着にして褌を穿いていたという事が判明するのです。
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余談、まるでBz?皮パンを穿いていた呂布(りょふ)
さて、この特鼻褌ですが布なので、馬に乗る時には強度が不足していました。特鼻褌で馬に乗ると、皮膚が馬の体に擦れて血だらけになってしまいます。そこで馬に乗るには、それ専用のパンツが必要だったのです。
ですので騎兵は、乗馬用に皮製パンツか厚手の生地のパンツを穿いていたようです。それも遊牧民のスタイルだったのでしょうが、デブチンの中年劉備ではなく例えば、呂布(りょふ)が皮パンで赤兎馬(せきとば)に跨っていたとしたら、結構カッコイイですよね?絶えず馬に乗っているので腹筋も割れて、臀筋も引き締まっているだろうし、、なんか、Bzみたいじゃあ、ありませんか?
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三国志ライターkawausoの独り言
下着の記録というのはいつの時代でも記録に残りにくいものです。あまりにも当時の人の中では当たり前過ぎて、わざわざ書き残そうという発想が湧かないからでしょう。お時間がある方は、今の内に世界の人々の下着を調べておいて、記録しておくと、それが数百年後に世紀の大発見という事になるかも知れませんよ?
今日も三国志の話題をご馳走様でした・・ウルトラ・ソーウル!!