衝撃の事実!赤兎馬の子孫が判明!?

2015年8月24日


赤兎馬

三国志演義を語る上で常に出てくるのが呂布(りょふ)

そして呂布と関羽(かんう)の愛馬だった赤兎馬(せきとば)という存在です。

 

一日に千里(414キロ)を走り、史記には「血を汗のように流して走る」

と書かれた為に汗血馬(かんけつば)とも呼ばれる赤兎馬ですが、

その子孫と考えられている馬が遥かトルクメニスタンで国の宝、

アハルテケとして大事に飼育されているという事をご存じでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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赤兎馬って何?

赤兎馬 呂布

 

アハルテケについて説明する前に赤兎馬について説明しましょう。

赤兎馬は、当時中国にいた馬とは比較にならない程に大きく、

その並はずれた身体能力から演義だけに登場する架空の馬のように

思われていますが、しっかり実在する馬でした。

 

演義では、呂布が最初に所持し、その後、関羽の乗馬になります。

 

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赤兎馬が実在したその根拠とは?

呂布 英雄石像

 

赤兎馬は、後漢書の75巻、劉焉袁術・呂布列伝にこう記載があります。

 

布常御良馬 號曰赤菟 能馳城飛塹

 

この意味を現代文にすると、呂布は、良馬に乗っていた。

名前を赤菟(せきと)と言い、よく城を駆け抜け掘を飛び越えた。

というような意味になります。

 

また正史三国志の呂布伝によると、呂布が袁紹(えんしょう)の客将だった頃に、

袁紹の頼みで張燕(ちょうえん)という敵を倒しているのですが、ここでも呂布は、

いつも赤菟 という良馬に乗り、敵陣に突撃して張燕を撃ち破ったとあります。

 

この事から、赤兎馬は実在した馬であり、演義の創作ではないという

事が窺い知れるのです。

 

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どうして、赤兎馬の子孫がアハルテケだと言える?

 

 

赤兎馬の子孫がどうして、トルクメニスタンのアハルテケであるのか?

に関しては、このトルクメニスタンが三国志の時代に

安息(あんそく)国と呼ばれていたという事に関係があります。

 

この土地にはパルティアという精強な騎兵を持つ国家があり、

前漢の武帝が送り込んだ冒険家の張鷹(ちょうけん)は、

この土地が名馬の産地であるという事を報告し

司馬遷(しばせん)は史記に、その事を汗血馬として記載しています。

 

武帝は匈奴との戦いで、体格の劣る中国の馬ではなく、

匈奴にも対応できる大型の馬を求めていました。

そこで、この安息国から馬を買い求めて、漢の軍事力を強化したのです。

 

アハルテケは、世界でも最古と言われる古い種の馬ですから、

赤兎馬は、この安息国の産地である可能性が高いのです。

 

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普及していたパルティアショット

騎馬兵 騎馬軍団

 

中国には、この安息国産のアハルテケが輸入されると同時に、

当時、無敵を誇った弓法であるパルティアショットも輸入したようです。

 

これは、馬に乗ったまま、敵を全速力で追い越して、振り向きながら、

弓を射るという方法で、相当な技量を必要としました。

 

曹操軍では、曹真(そうしん)がこのパルティアショットの名手でした。

ここからもパルティアと中国の関連性は大きく大量の名馬が

輸入されたのは疑いがないと思われます。

 

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トルクメニスタンの宝 アハルテケ

 

トルクメニスタンは中央アジアの国ですが自国の特産である、

アハルテケを国の宝と考え自国の貨幣や国旗の中央にもデザインしています。

 

以前、トルクメニスタンがソビエトに属していた頃の事、

馬の価値に無理解なソビエト政府の命令でアハルテケを

食肉用として屠畜する命令が出ました。。

 

アハルテケは多くが殺され、僅か1250頭しか残らなかったそうです。

 

その事を教訓としてトルクメニスタンは独立後、アハルテケを

数頭の競売用以外は売却しないで繁殖させ、今は2000頭までは

数を増やしています。

 

アハルテケには幻の名馬であり全世界に3500頭しか存在せず、

金銭に換えられない価値があります。

 

それを利用してトルクメニスタン政府は、友好国への贈物として、

アハルテケを贈答しているようです。

 

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アハルテケとは、どんな馬?

(写真は実際のアハルテケ

アハルテケは、体高が160センチと大きく金属光沢がある毛並みをしています。

黄金色の毛並みまであり、彫刻したような神々しい美しさを誇る馬もいます。

 

顔はシュッとしていて、瞳はアーモンドのような形、背中が広く筋肉質で

肩は傾斜していて、皮膚が薄く、全身に贅肉がありません。

 

狩猟犬にグレイハウンドという種がいますが、その馬バージョンのようです。

 

トルクメニスタンは、乾燥地域で水が充分ではありません。

そこでアハルテケは厳しい環境に適応していて、持久力が高く、

記録によれば、1935年にトルクメニスタンの首都、アシガバードから

ソビエトの首都モスクワまで4023キロを84日間で走破したと言われます。

 

378キロの砂漠も走破したアハルテケ

アハルテケ

その中には、378キロの砂漠がありましたが、

その間、3日間、水無しだったようです。

 

砂漠を走破するだけでも大変なのに人を乗せて走り3日水も飲めない

というのですから、その耐久力は一級と言えるでしょう。

 

また、アハルテケは生涯、1人の人間にしか懐かないと言われます。

命を預けるパートナーを選び人への愛情が深い馬なのです。

 

赤兎馬とアハルテケの共通点

裏切り 呂布

 

赤兎馬とアハルテケの共通点は、その姿の美しさがあると思います。

赤兎馬は、ただ速いだけではなく、姿が美しかったからこそ、

呂布に愛され、大きなステイタスになったからです。

 

そして、軍馬としては、過酷な環境に耐えるタフさも要求されます。

その生涯の大半を戦場で過ごした呂布の乗馬として赤兎馬は

苛酷な使われ方をしたでしょうが、へばったり呂布の命令を拒否していません。

ここはアハルテケの苛酷な環境に耐えるタフさが現れています。

 

また、アハルテケは姿の美しさと体の無駄の無さから障害飛び越え競技の馬として

有名ですが、これは、後漢書で紹介された城を駆け抜け、掘を飛び越えるという

描写に反映されているように思えます。

 

関羽が死んだ後、赤兎馬はどうなったの?

関羽 死

 

それから、これは演義の話ですが、関羽が死んだ後、赤兎馬は、

呉の馬忠(ばちゅう)に与えられますが餌を食べなくなり死んだと記録されます。

 

これは、生涯、1人の人間にしか懐かないというアハルテケの特徴、

そのままではないでしょうか?

 

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アハルテケや赤兎馬は速かったのか?

関羽千里行 ゆるキャラ

 

赤兎馬は、一日に千里(414キロ)を走ると言われましたが、

馬の時速である70キロで考えても、6時間フル走行になります。

機械じゃあるまいし、とても考えられない数字です。

 

実際には、馬が一日に走る距離は、精々数十キロで無理をさせたりしません。

馬は体の構造上、4本足の先は一本の指にあたり、とても繊細です。

骨折でもしようものなら、その巨体を起す事も出来なくなり、

薬殺するしかなくなる程です。

 

戦場で馬に求められるのは、瞬間的な速さであり、

それは時速70キロという速度で充分クリアしていると言えます。

赤兎馬が千里を走るというのは、その速度で一日走れば、

414キロは走破できるよ、という誉めたたえる言葉だったのだと思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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