魏の五将軍である張遼・于禁・徐晃・張郃と共に名を連ねた楽進。彼は五将軍に選ばれるくらいですから、勇猛な性格だと思っている方が多くいると思いますが、勇猛な性格だけではありません。
では彼は勇猛さのほかにどのような性格の持ち主だったのでしょうか。
今回は楽進の性格について職歴から調べてみたいと思います。
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楽進は几帳面な性格!?
魏の五将軍には様々な性格の持ち主がいます。例えば張遼は孫権軍10万を迎撃した合肥の戦いで、800の兵を率いて奇襲攻撃をかけている事から、勇気に富んだ性格の持ち主だったと思われます。
また于禁は正史三国志の作者・陳寿によれば、「剛毅で威厳を持った将軍である」と評価されています。では楽進はどのような性格だったのでしょうか。楽進は曹操に初めて仕えた時、記録係の役職を与えられます。
正史三国志では楽進が記録係として大きな失敗を犯したと記されていない事から、それなりにそつなく仕事をこなしていたと考えられ、意外に几帳面な性格の持ち主だったと思われます。
人望を集めた性格
曹操は群雄として名乗りを上げて独立勢力を形成した時、あまり兵力を多く保有していなかったため、配下を使って兵を募っていました。曹操は配下の武将として加わった楽進を郷里に帰して、兵を集めてくるように命令。
楽進は郷里へ帰って兵を募ると1000人もの兵を集めることに成功し、曹操の元へ帰参。この楽進のエピソードから彼の性格が一つ浮かび上がってきます。それは人望のある性格です。人望の無い人が土地で兵士を募っても兵を集める事はかなり難しいでしょう。
ですが彼は周りの人々から人望があったおかげで、1000人もの人数を集めることできたのです。
恐れを知らない性格
楽進はその後、曹操に従って呂布討伐や曹操に反旗を翻した張超、袁術配下の将軍・橋蕤討伐戦などに出陣し、一番乗りを果たします。一番乗りは戦において名誉なことで功績として大きいですが、なかなか難しいものがあります。
その理由は味方よりも早く敵陣へ突撃しないといけない為、強大な兵力を持った敵兵の中へ突撃して一番乗りの功績を挙げても、敵中で孤立する可能性があるからです。そのため一番乗りの功績を挙げるには自分の気持ちの中にある恐れに勝たなくてはなりません。
楽進は上記で紹介した危険性を顧みず敵中へ突撃し、一番乗りを挙げています。このことから彼が恐れを知らない性格で肝っ玉の太い性格だったと言えるでしょう。
正史での楽進の性格
ここまで参考資料に記載されている楽進の職歴から、彼の性格を紹介してきました。では正史三国志の作者である陳寿は楽進をどのように評価しているのでしょうか。
陳寿は「驍勇果断(強くて勇ましく、決断力に優れている)将軍である」と評価を下しています。このことから楽進が五将軍として名を連ねるに相応しい性格の持ち主だった事も陳寿の評価からうかがえます。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は楽進の性格を彼の職歴から調査してきましたが、一つ思ったことがあります。
それは楽進の性格が蜀の趙雲に似ている点です。楽進は肝っ玉が太く恐れ知らずで、戦場で一番乗りを果たしています。
蜀の趙雲も恐れ知らずで、長坂の戦いでは、劉備の息子・劉禅を救うため、単騎で曹操軍の大軍へ突撃して劉禅を救出。この恐れ知らずの性格と言う点だけを見た場合、魏の楽進と蜀の趙雲の性格が似ていると思いませんか。
レンは今回この記事を書く際に正史三国志魏書・楽進伝などを参考資料として使って調査したのですが、中々楽進の性格について記載されている文献がありませんでした。ですが、今回のように楽進の職歴を通じて彼の性格がおぼろげながら見えたと思うのですが、皆様どのように思いますか。
■参考文献 正史三国志魏書など