北方の勇者、公孫瓚、そんな彼が宿敵としたのが劉虞であり袁紹です。
公孫越は、そんな公孫瓚の従兄弟と言われていますが、皮肉な事に、劉虞や袁紹と公孫瓚が対立する切っ掛けに公孫越は貢献しているのです。
今回は、生まれつきトラブルを呼び込む男、公孫越について考えます。
関連記事:もしも公孫瓚と袁紹が協力して曹操に挑んだら勝てるか?【if三国志】
関連記事:みじめな最期を遂げた公孫瓚が袁紹に勝利するためのシナリオとは?
この記事の目次
公孫越、公孫瓚の従兄弟として生まれる
公孫越は後漢の末期、幽州遼西郡令支県という中国と言えるかどうかも不明な漢族と異民族が混在する辺境の土地で生まれます。
と言っても、それは三国志の時代の話で、今では北京に近いんですけどね。
遼西郡令支県は、かの公孫瓚の出身地でもあり、年齢からみると公孫越は公孫瓚の従兄弟に当たるようです。
西暦191年献帝、暴力の巷長安からの脱出を画策
公孫瓚の上司には劉虞という人物がいました。彼は劉姓だけあり先祖は後漢建国の祖、光武帝劉秀の長男劉彊です。
どこかの劉備さんのように前漢景帝の末裔という水99%のカルピスみたいな自慢しか出来ない人より100倍プリンスでした。
しかし、公孫瓚と劉虞は、異民族対策で穏健派の劉虞と強硬派の公孫瓚で真逆でした。
ただ、この頃までは対立と言ってもただの見解の相違であり、お互いを憎悪するような険悪な関係には至っていませんでした。
董卓が洛陽を焼き払い、長安に遷都すると幽州牧の劉虞は、献帝に変わらぬ忠誠を誓うために田疇と鮮于銀を使者として派遣します。
暴政に飽きて洛陽に還りたい献帝は侍中として宮廷に仕えていた劉虞の子の劉和を董卓の下から逃れたと嘘をつかせ劉虞の下に派遣します。
「もう腐敗と自由と暴力の真っただ中は嫌じゃ、助けてケンシ、、劉虞!どうか、朕を迎えにきてたも」
劉和は、こんな献帝のメッセージを抱えて幽州に向かいますが、途中の南陽で監禁マニアの袁術に捕まり抑留されてしまいます。
悪賢い袁術は、献帝の手紙を利用して劉虞の兵力を奪い取る事を計画し劉和に偽手紙を書かせて、劉虞に南陽まで騎兵を送るように指示します。
袁術に劉虞の悪口を吹き込むべく公孫越登場
この手紙は劉虞に渡り、王族ボンボンの劉虞は要求通りに烏桓突騎を数千名派遣しようとします。
ところがここで性格が悪い公孫瓚が、これは偽手紙ですと指摘しました。
「袁術のヒヒ野郎は、劉和殿を抑留して幽州の騎兵を騙し取るつもりですどうか、こんな姦計には乗りませんように」
しかし内心、公孫瓚を疎んじている劉虞は聞く耳を持たずに騎兵を派遣しました。
すると性格の悪い公孫瓚は焦り始めます。
(劉虞の野郎、もしかして袁術に媚びて、俺が袁術にヒヒ野郎だとか足が臭いとか三国無双のあのヒゲなんだwとか、
サッカー通とか言ってるくせに未だにオフサイドをよく知らないレベルとか言ったのをバラす気じゃないだろうな)
どうして、公孫瓚がこんなに袁術を恐れているかと言うと、当時、袁術と袁紹は二袁と呼ばれて、中華を二分する大勢力だったからです。
そこで、やられる前にやれと、公孫越を呼び出して騎兵を与え袁術の下に派遣、悪口要員として劉虞の評判を落とすように命じました。
こうなると、劉和も公孫越も、お互いの悪口を袁術に吹き込むのに必死。さらに相手がどんな悪口を言ったかを劉虞と公孫瓚に手紙で知らせるので
憎悪が憎悪を呼び、公孫瓚と劉虞は最悪の関係になっていきます。
公孫瓚は公孫越に劉和を逮捕する事を命じ、恐れた劉和は劉虞の下に逃亡。かくして、二人の対立は決定的になりました。
公孫越、袁紹配下の周昂に殺され公孫瓚と袁紹の対立の火種に
公孫越は劉和が逃亡した後も、袁術の配下として南陽に留まっていました。
そんな時、袁紹陣営の周昂が袁術のシマである陽城を攻撃します。
激怒した袁術は、孫堅と公孫越に周昂を倒すように命じました。
公孫越は、袁術配下として奮戦しましたが、運悪く流れ矢に当たり戦死。まったくいい所なしで、公孫瓚の悪口要員として散ってしまうのです。
しかし、公孫越の死は、それだけでは終わりませんでした。公孫瓚は従兄弟が袁紹に殺されたと聞くと激怒します。
「おおお、俺の従兄弟がアア、、おのれ袁紹、許さんぞおお」
激怒した公孫瓚は、兵を率いて盤河まで出兵しました。
まさか従兄弟が殺された公孫瓚が、こんなに怒るとは思いもしない袁紹は狼狽
(しかも、袁紹が手を下したわけでもないのに・・)
戦争を回避する為に、同じく公孫瓚の従兄弟の公孫範に渤海太守の印綬を与え渤海太守に任命して懐柔を図ります。
ところが、公孫範も性格が悪い男であり大人しくなるどころか、渤海の兵力を吸収すると青州と徐州の黄巾賊を吸収して兵力を増強し
公孫瓚の軍勢に合流しました。
「えええ、約束が違うじゃん、なんだよアノじじい!」
困惑する袁紹とは無関係に公孫瓚は大盛り上がりでゴネまくり朝廷に上奏して袁紹がいかに卑劣な男かディスりまくった上、
田楷、厳綱、単経のような配下を青州・冀州・兗州、三州の刺史に任命、そして、郡長官、県令を勝手に指名し
袁紹との対決姿勢を明らかにしました。
ここから、袁紹と公孫瓚は界橋の戦いでぶつかり以後六年ばかり続く果てしない抗争を繰り返す事になります。
公孫越は当人の意思に関係なく、劉虞、そして袁紹と公孫瓚が敵対する切っ掛けを造る事になったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
公孫越は三国志演義では、公孫瓚の弟扱いになっています。
そして、死に方も公孫瓚と袁紹で冀州分割を話し合っている途中に袁紹にだまし討ちされて殺されるという、
より袁紹を悪役にしたあらすじに変更されました。
しかし、実際公孫瓚の袁術への媚びを見ると、袁術とは融和し領土が接する袁紹とは敵対する袁交近攻策だったと考えられます。
元々、袁紹と友好的だった記述もないので、敵対は基本路線だったでしょう。
ただ、改めて袁紹と事を構えるのには大義名分が必要なので公孫越が殺された事を、公孫瓚が利用したのだと思われます。
参考文献:正史三国志公孫瓚伝 後漢書公孫瓚伝
関連記事:公孫瓚はクズ野郎だった?北の英傑公孫サンの実像があまりにも酷い件