龐徳(ほうとく)、字は令明(れいめい)。龐悳とも表記されます。魏の中では新米でしたが、馬騰・馬超配下では既に猛将として地位を築いており、曹操に降ったのち、忠を全うした武将。死力を尽くして英傑・関羽と戦った龐徳という人物は一体どんな人だったのでしょうか?
この記事の目次
馬騰軍で猛将中の猛将
若き龐徳は190年~193年に馬騰(ばとう)に付き従い、反乱を起こした羌族・氏族を何度も討伐するなど功績を挙げています。黄巾の乱が起こった際にも先鋒として敵を散々と討ち取り馬騰軍の勇将と謳われていました。
馬騰が朝廷に呼ばれて息子の馬超の配下に付く
曹操に呼ばれた馬騰は入朝して衛尉に任命されると、龐徳はとどまりそのまま馬騰の息子・馬超(ばちょう)に仕えました。
曹操に敗れた馬超は漢中に落ち延び張魯に従属
馬超は曹操に対して反乱を起こし、渭南で曹操と戦いましたが敗れました。馬超に従って漢陽に逃げ込み冀城を死守し、再度馬超は曹操に対して反乱を起こしましたが、曹操に敗れ漢中に落ち延びることになったのです。そして当時、漢中を支配してた五斗米道の張魯に従属します。
215年 曹操、陽平関の戦いで張魯を降伏させる
曹操は漢中を平定すると、張魯は軍勢を引き連れて降伏。曹操は以前から龐徳の武勇を知っていたので重用し、立義将軍に任命し関門亭侯に取り立てました。
曹操に仕えることになった龐徳に早速疑いの目が...
荊州の宛城で侯音や衛開らが反乱を起こすと、曹操配下になった龐徳は、曹仁と共に鎮圧に成功をします。そのまま南下して樊城に駐留し、劉備軍の関羽に備えました。しかし、龐徳には従兄の龐柔(ほうじゅう)と旧主君の馬超が劉備の配下としていたことから、樊城の諸将達は彼を疑ったのです。
新米ながらも忠義をアピールする龐徳
関羽との対峙を前に疑いをかけられた龐徳は言います。「わしは国から恩恵を受けており、道義から言って死を捧げる!わしが死ぬか、関羽が死ぬかだ!だから何としてでもわしは年内中に関羽を討つんだ!」と樊城の諸将達に伝えました。
遂に関羽と対峙、龐徳の放つ矢が関羽に...
関羽と対峙した龐徳は、戦闘で関羽の額に矢を射当てました。当時、龐徳は白馬に乗っていたことから関羽の軍では「白馬将軍」と呼んで恐れました。曹仁の命令により樊城の北方10里に駐屯したところ、10日も続く長雨の影響で漢水が氾濫し平地が水没してしまいます。
于禁・龐徳・諸将たちは水を避けるため堤に避難
于禁・龐徳はじめ諸将たちは、水を避けるため堤に登りましたが、船に乗った関羽軍に囲まれました。次第に敗戦を悟った配下の董衡・董超が関羽に降伏しようとしたので切り捨てました。
奮闘する龐徳
また水没していない丘に登り、弓矢による反撃を続けた龐統軍。しかし、水が増してくるにしたがい、指揮官や兵士は皆、降伏していきました。龐徳は濁流の中、小舟に乗り曹仁の元に帰還しようとしましたが、水の憩いで舟が転覆。遂に龐徳は関羽に捕縛されました。
降伏を勧める関羽に龐徳は...
一緒に出陣した魏の五将軍の于禁は必死に命乞いをして関羽に降伏してしまいます。一方の龐徳は、龐柔と馬超が劉備の元にいるから、素直に降伏したらどうか?と促す関羽に対して、龐徳は「我は国家の鬼となり、賊将にはならぬ」と関羽を煽って殺害されました。
降伏の知らせを聞いた曹操は涙する
龐徳は打首になり対照的に命乞いをして降伏した于禁の知らせを聞いた曹操は涙を流して悲しんだと言われています。曹操は于禁と共にして30年になるが、困難を前にして新参の龐徳が忠義を貫らぬくとは思いもよらなかったと述べています。(「于禁伝」)
三国志演義の龐徳の忠義心アピールが感動的
一方、三国志演義の龐徳は、樊城が換羽に攻められ危機に陥っていました。于禁とともに救援部隊の先鋒を曹操に願いでるが、まだ、曹操配下として期間が短く以前の主君・馬超と兄の龐柔が劉備のもとにいるため、心根を疑われます。龐徳は、曹操の前で、「関羽を私に討たせて欲しい」と頭を何度も床に叩きつけて流血するまで曹操に願い出たと紹介しています。それでも曹操に疑われた龐徳は、棺を作らせて必死の覚悟で出陣したのです。
はじめての三国志代表おとぼけの独り言
やぁ、兄弟。龐徳の忠義心に感動しましたでしょうか?曹操配下として活動した期間は短かった龐徳でしたが、その忠烈な最期を称えられ、史書に名を残す事となりました。曹丕の時代でも龐徳のその熱き忠義心を高く評価され、墓へ派遣された使者から壮侯と諡されました。龐徳の息子、龐会(ほうかい)ら4名にも爵位を贈られています。そして、この後を継いだ龐会(ほうかい)が凄まじいのです。
龐会は、中衛将軍まで昇進し、263年には鄧艾(とうがい)、鍾会(しょうかい)率いる蜀漢討伐で蜀を滅ぼします。王隠の『蜀記』によると、蜀滅亡後に龐会は父の仇である関羽の一族をことごとく滅ぼしたと記述されています。積年の恨みというのは恐ろしいことですね。私も人を傷つけたりしないよう言動には気をつけようと思います。
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