麒麟がくる第五話「伊平次を探せ」では、若き光秀があの本能寺に向かう事になります。もちろん火をつけにではなく、本能寺内部で鉄砲が造られているという噂を聞いたからです。しかし、この本能寺。実は本能寺の変ばかりでなく、史上何回も焼き討ちされては甦った逞しい寺だったのです。
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ただのお寺ではない本能寺
本能寺は普通のお寺ではありません。信長が逗留していた頃は、四町四方の広大な領域に、塔頭30以上を持つ大伽藍と伝えられ、そればかりか、周囲には屏や石垣、土居が張り巡らされていました。
どうして、警戒厳重なのかと言うと、やはり歴史上、何度も焼かれた経験からでしょう。
しかも室町時代から戦国時代に掛けては、同じ坊主である法華門徒や延暦寺僧兵に破壊されたり、焼き払われたりしたからです。この時代の武闘派坊主を江戸時代の坊主と一緒くたにすると間違います。
織田信長が本能寺に逗留したのは、3回とされています。本能寺8世日承上人に帰依していた事もあるでしょうが、案外、警戒厳重な本能寺の造りが気に入っていたのかも知れません。
何度も焼かれる本能寺
本能寺は、応永22年(1415年)京都油小路高辻と五条坊門の間に日隆によって創建されました。元々、日隆は妙本寺にいましたが、妙本寺5世、月明と法華経の解釈を巡り対立、妙本寺を去っていました。
しかし、妙本寺月明は収まっていなかったらしく、応永五年、妙本寺の僧が押しかけて本応寺を破壊してしまいます。追われた日隆は、本厳寺、本興寺に移っていきましたが、永享元年(1429年)京都に帰還し、大旦那小袖屋宗句の援助で千本極楽付近の内野に本応寺を再建します。
さらに、永享五年には如意王丸という人物に六角大宮の西、四条坊門の北に土地を寄進されたので、寺を再建し寺号を「本能寺」と改めます。その後、本能寺は法華経弘通の霊場として繁栄し、室町後期にかけて洛中法華二十一寺の一つとなり、足利氏の庇護も受けます。
応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は大半が法華宗門徒だったので、本能寺は繁栄を極めました。しかし、天文五年(1536年)宗教問答を発端にした天文法華の乱で、延暦寺僧兵が本能寺に押し入り、堂宇はことごとく焼き討ちされ一時堺の顕本寺に避難しました。
しばらくすると、日承上人が京都に戻り本能寺8世となります。上人は、伏見宮第五代邦高親王の子であり、天文十四年(1545年)西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる方一町に寺所を得て伽藍を造営し、子院も30以上を数えました。麒麟がくるの舞台は1549年なので、当時の本能寺は日承上人が再建したばかりの、真新しいお寺だったのかも知れません。
鉄砲と繋がりがあった本能寺
日承の時代の本能寺は、各地で布教した成果があがり、末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国、さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した時代でした。
種子島といえば、鉄砲が伝来した土地であり、鉄砲や火薬の入手につき優位な寺であったようです。
そのため、各地の戦国大名は、本能寺との繋がりを望んでいました。織田信長も鉄砲を調達する意図もあり、日承に帰依したのかも知れません。なので、麒麟がくるの設定である本能寺の中で鉄砲が製造されているというのも、あながち荒唐無稽でもないわけです。
本能寺の後も2回焼ける
そんな本能寺ですが、天正10年6月2日に、明智光秀の謀反にあった織田信長が首を討たれるのを回避する為に、自ら火を放ち焼け落ちてしまいます。
それと共に、信長が所持していた国宝級の茶器もほとんどが焼けてしまいます。しかし、本能寺は再び立ち上がり、天正19年(1591年)寺町御池に移転して再建します。復活した本能寺は、戦国大名と繋がりが深い事から、寛永年間には末寺92を持つ大寺院に成長していました。
ところが天明8年(1788年)天明の大火で、本能寺は再び焼け落ち、天保11年(1840年)日恩上人により再建。ところが、それから24年後の元治元年(1864年)有名な禁門の変で発生したどんどん焼きで本能寺も類焼しました。このように本能寺は、4回火災で焼け、一回は破壊されるという困難を経て、現在でも京都府京都市中京区下本能寺前に建っています。
戦国時代ライターkawausoの独り言
本能寺の変はよく知られていますが、焼けた本能寺の運命については、あまり知られていません。実際には、本能寺は一度ならず四度も焼き討ちされ、一度はぶっ壊されるという歴史を乗り越えて、令和の現在まで存続しているお寺なのです。
参考文献:歴史探訪 vol9日本刀戦国武将の刀
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