建安24年(219年)に関羽を討伐した呉(222年~280年)の将軍の呂蒙ですが、帰国から間もなくして、この世を去りました。
この呂蒙と同時期に亡くなった将軍に蒋欽という人物がいました。彼の存在は太史慈・周瑜・周泰などのメジャーな将軍の陰に隠れてしまうので、どうしても忘れてしまいがちです。
蒋欽とはどんな人物でしょうか?
今回は正史『三国志』をもとに呉のマイナー将軍の1人である蒋欽について紹介します。
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孫策に仕える蒋欽
蒋欽の詳しい経歴は分かっていませんが、孫策が袁術のもとに身を寄せていた時期に配下になったようです。時期は初平2年(191年)から興平2年(195年)と考えられます。『三国志演義』では周泰と一緒に水賊をしていましたが、孫策が挙兵すると聞いて駆け付けたという設定になっています。勝手に犯罪者にされて可哀そう・・・・・・
残念なことに孫策時代の活躍は大雑把にしか記されていません。江東平定の時に別部司馬(別動隊隊長)になって3つの郡を平定。その後は統治に専念します。
孫権は蒋欽にも学問をすすめていた!?
正史『三国志』に注を付けた裴松之が採用した『江表伝』という史料には、孫権が呂蒙に学問をすすめたことで彼は非常に勉強熱心になり秀才にまでなった逸話が記されています。この逸話は『三国志』呂蒙伝に掲載されていることや、話が呂蒙視点で進むことから孫権が学問をすすめたのは呂蒙だけと思われがちです。
しかし『江表伝』をしっかり読み直すと、孫権は呂蒙だけではなく蒋欽にも学問をすすめていたことが記されています。また、話の結末で孫権は、「ちゃんとした大人になってからも積極的に自己の向上心を目指す、そうした点では呂蒙と蒋欽に及ぶ者はいない」と言っていました。蒋欽も呂蒙と一緒で文武両道の人物になることに成功した人物だったのです。
徐盛を推薦する
蒋欽が反乱討伐に出陣している間に、徐盛は蒋欽の部下を捕縛して死罪にすることを孫権に進言しました。蒋欽の部下がなぜ捕縛されたのか正史は何も語っていませんが、推測を広げるならば窃盗・殺人・賄賂などでしょう。孫権は蒋欽が留守であることから、上記の件を不問にしました。この一件以降、徐盛は蒋欽からの報復を恐れるようになります。時は流れて建安22年(217年)に孫権と曹操は濡須口で戦闘になりました。この時の呉軍の司令官は呂蒙と蒋欽です。
蒋欽のもとに配属されていた徐盛は復讐されることを恐れて、ビクビクしていました。ところが、蒋欽は徐盛のことを良い点ばかりを孫権に報告していました。それを聞いた孫権は不思議に感じており蒋欽に尋ねます。
「徐盛はかつて、あなたのことを悪く言ったのに、なぜかあなたは徐盛を称賛する。祁奚のマネか?」
祁奚は春秋時代の人物であり退職の際に後任に自分と仲が悪かった人物を推薦した人物。つまり人柄より、実力を重視したのです。蒋欽は孫権の問いに対して、「私は公の推薦には私怨を交えぬと聞いています。徐盛は真心をもって務めており、見通しもあり、実務能力の備えており、1万の兵を指揮するにふさわしい人物です・・・・・・どうして私怨に引かれて有能な人材を隠れたままにしましょうか?」と答えました。
孫権は蒋欽の答えに、ものすごく喜びました。
三国志ライター 晃の独り言 蒋欽ライザップ疑惑!?
このように公私をわきまえた蒋欽でしたが、建安24年(219年)の関羽討伐を終了させてか帰国する途中に亡くなりました。享年不明です。蒋欽は横山光輝『三国志』では初登場時と再登場時では全く顔が違います。初登場時はメタボの盗賊顔、15年後の再登場時はやせており、ダンディーなおじさまになっています。結果にコミットしたのですね(笑)
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