服部小平太とはどんな人?今川義元に一番やりをつけた男の生涯

2020年5月31日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

『服部小平太(はっとりこへいた)』と聞いて、すぐに分かった人はかなりの戦国通です。「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい
)
で、今川義元(いまがわ よしもと
)
に一番やりをつけた男」と言えば、ピンとくる方もおられるでしょう。

 

いえいえ「そもそも誰やねん」という方が最も多いかもしれません。その名前を知っている人でも、彼がその後どんな人生を送ったかということまでご存知の方は少ないと思います。今回は、桶狭間で華々しいデビューを飾った男の、波乱万丈の人生をご紹介していきます。

 

服部小平太の名前が最初に出てくるのは『桶狭間の戦い』

 

よく知られている『服部小平太(はっとりこへいた)』というのは通称で、正式には『服部一忠(はっとりかずただ)』といいます。『春安(はるやす)』、『忠次(ただつぐ)』という名前で載っている文献もあるようですので、一時期そう名乗っていたとも考えられています。

 

いずれにしても同一人物です。生まれた年は不明ですが、尾張の国の「津島(つしま)」あたりの出身であったといわれています。津島といえば、「津島湊(つしまみなと)」という交通の要衝があり、ここでの交易が織田家の財政を潤わせていたという重要拠点です。

 

父の墓に抹香を投げつける織田信長

 

その辺りで育った小平太は、若い頃の織田信長の遊び仲間であったと伝えられています。体が大きい上に力が強く、運動神経は抜群でした。信長と年も近かったのでしょう。気心が知れた仲というのもあったのでしょうか、信長の側近である「馬廻り(うままわり
)
」として召抱えられます。この馬廻りという部隊に配属されたことが、『桶狭間の戦い』での武功につながります。

 

同年小録(書物・書類)

 

服部小平太の名前が、文献に最初に出てくるのは、この『桶狭間の戦い』に関連した記述なのです。有名なこの戦いは、「戦国史上最も華麗な番狂わせ」ともいわれています。その番狂わせの立役者の1人が、この服部小平太です。

 

今川義元

 

なんと、敵方の大将「今川義元(いまがわ よしもと
)
」を、最初にやりで刺す(一番やり)という快挙!敵の本陣に突撃して、最も早く大将のところまでたどり着いたということです。しかし、さすがの義元というもの、反撃され、やりの柄と膝を切られます。そこへ、一足遅く駆けてきた同じ馬廻りの毛利新助(もうりしんすけ)(良勝)が、義元に襲いかかり助けてもらいます。ですが、結局討ち取ったのは毛利となりました。

 

そもそも『桶狭間の戦い』って何?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

有名すぎるほど有名な『桶狭間の戦い』ですが、そもそもなぜ起こって、どういったものだったのか?簡単に整理しておきましょう。時は永禄3年(1560年)、織田信長と今川義元との合戦です。信長は、父信秀(のぶひで)の死後に混乱した国内をようやく平定した直後でした。

 

鉄砲隊を率いる今川義元

 

侵攻してきたのは義元で当時42才、迎え撃つ信長は26才でした。伝わっている話では、今川軍2万5千に対し、織田軍は3千ほど(諸説あり)。その織田軍が勝利したというのですから、驚きをもって世間に受け止められ、信長の名前を後世にまで知らしめることになった戦いです。また、信長の天下取りの第一歩となったという点でも重要な戦です。

 

今川義元

 

敗北した今川義元は、駿河(するが)(現在の静岡あたり)を広く治めていた大名です。ドラマなどでは、間抜けな人物のように描かれることがありますが、実はそうではありません。早くから聡明で、19歳という若さで家督を継ぎながらも、統治や外交面で大きな成果を挙げます。

 

真田丸 武田信玄

 

この時代随一の大名だったと言っても過言ではないでしょう。その義元は、人生のほとんどを、東の北条氏と北の武田氏との戦に費やしてきました。それを、甲相駿三国同盟という外交面での奇策でもって解消し、背後への不安を断ち、満を持して西進したのです。

 

天下布武を唱える織田信長

 

そして、西の織田信長と激突したのが「桶狭間」付近であったのです。義元は京に上洛するつもりだったともいわれています。そのルート上にある国を攻める、もしくは外交的な決着をつけ従えていくつもりだったのでしょう。当時としてはかなりの大軍でした。義元からすれば、負けるはずのない戦。

 

流れを見ても落ち度は特になく、勝つための手順を着実に踏んでいきます。ここで、正攻法で戦っても勝ち目がないと悟った信長は、死を覚悟します。「人間50年~」という「敦盛(あつもり
)
」を舞い、腹をくくり大博打にでます。

 

燃える本能寺

 

この「敦盛」、本能寺の変が描かれるときによく使われますが、記録がきちんと残っているのは実はこのときです。撃って出る義元本陣を突くしか勝ち目はない。運も信長に味方します。その日、豪雨があったと伝えられているのです。

 

雨の中、義元本陣は突然信長軍からの攻撃を受けます。全く予想していなかった義元軍は総崩れとなり、遂に総大将の義元まで討ち取られることになります。その後も、追撃戦で今川方を散々に痛めつけます。

 

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

このことが、今川家の衰退、松平家(徳川)の復興につながっていくわけですが、ここではその話は置いておくことにします。そう、信長はこの大博打に勝ったのです。たらればですが、もしも義元の侵攻が数年早ければ違った結果になっていたでしょう。信長は、このときのような軍事行動は取れていなかったはずです。結果論でしょうか。

 

織田信長

 

これ以後、信長はこういった博打のような戦は絶対に行いませんでした。それこそ、義元のように、必ず勝てるような状態で戦に臨んだのです。それでも、負けることがある。戦とは怖いものですね。

 

服部小平太は織田家でさぞかし出世したのでは?

馬に乗って戦う若き織田信長

 

桶狭間の戦いで、世紀の番狂わせを起こした織田信長。小平太が、ここで武功をあげられたのは、馬廻りという部隊にいたからだと前にも触れました。この日、信長は3千ほどいた部隊を、通常の手順で分けて砦に向かわせました。

 

この動きが見事な陽動になっています。義元からすれば、想定内の一手を打ってきたという感じだったでしょう。その後、最終的に残った側近だけでひっそり砦から出て、義元の本陣に突撃したのです。その数は300程度だったといわれています。

 

足軽a-モブ(兵士)

 

その場に(幸運にも?)居合わられたのは、小平太などごく限られた者のみだったのです。少人数だったのでスピードが速く、義元側に悟られなかったのでしょう。小平太たちはみな必死です。

 

義元を討ち取れなければ全員死ぬことになる。その覚悟を共有していました。そのおかげか、見事にこの偉業を成し遂げました。勝ち戦でで、お祭り騒ぎの織田家中。ですが、報奨の場でみな驚かされます。

 

それは、後世では「さすが信長」といわれる特殊なものだったのです。一番やりをつけた服部小平太、義元を討ち取った毛利新助、この2人のどちらかが第一功となると誰もが思いますよね。ですが、その場で信長が最初に名前を呼んだのは『簗田政綱(やなだまさつな)』だったのです。

 

「誰やて?(岐阜弁)」

 

ほとんど誰も知らない人物が、1番初めに呼ばれたのです。

 

簗田政綱(やなだまさつな)という武将。実は彼は、隠密のような行動を取っていました。農民のような格好をして戦場にまぎれ、今川軍の動きを報告しました。その正確な情報により、信長は義元本陣の場所を特定できたのです。

 

武功ではなく、勝利につながる情報をもたらせた者が第一功。今でこそ素晴らしいと思われますが、当時ではあまり理解できないものだったのではないでしょうか。とにもかくにも、小平太は2番目の功労(毛利は3番目)をもらいます。しかし、心中は穏やかではなかったことでしょう。しかも、義元に切られた膝の傷が深く、その後長く療養することになるのです!

 

その療養期間中、小平太は家督を弟の小藤太(ことうた)に譲り、馬廻りもやめてしまいます。そして、しばらく歴史の表舞台から下りることになります。

 

弟の小藤太は本能寺の変で討ち死に

前田利家

 

小平太がほとんど隠居のようになってから、代わりとして推薦されたのが弟の小藤太です。張り切って信長に仕え、桶狭間での兄の盟友である毛利新助や、前田利家(まえだ としいえ
)
らに可愛がられたといいます。やはり、織田家とは家族ぐるみの付き合いだったのでしょうか、近臣に置かれます。

 

本能寺の変の織田信長

 

どちらかといえば文官としての才能を発揮していたという記録が残っています。桶狭間以降、織田家は常に戦をしていました。気の休まることはほとんどなかったでしょうが、それが彼らの人生でした。そして、桶狭間の戦いから22年後の天正10年(1582年)『本能寺の変』が勃発。

 

火縄銃(鉄砲)が得意な明智光秀

 

知らせを聞いた小藤太は、距離的に本能寺には間に合わないと判断。信忠(のぶただ)(信長の嫡男で、当時の君主)のいる二条城(にじょうじょう)に、毛利らと共に駆けつけます。しかし、明智光秀の軍勢に抗いきれず討ち死に。このことが、また小平太の人生を大きく変えることになります。

本能寺の変後に秀吉に抜擢される

明智光秀を馬鹿にする豊臣秀吉

 

本能寺の変後、山崎の合戦で光秀に勝利した羽柴秀吉は、織田家の中心人物となっていきます。秀吉の人材登用は、この頃から近親者を重用する傾向が強くなったといわれています。信長が徹底した能力主義で、それによって光秀の謀反が起こったという事例を体感していたからなのでしょうか。

 

血縁関係のある者や、昔からなじみのある者を多く登用するようになります。その流れの中で、抜擢されたのが服部小平太でした。秀吉に呼ばれ参上する小平太。

 

豊臣秀吉 戦国時代2

 

服部家は、長年にわたって信長に重用されてきました。しかも、本能寺の変で、小藤太は命を捨てて織田家に尽くしたのです。服部家は、絶対に裏切らないと秀吉は確信していたでしょう。しかも、小平太はあの伝説の『桶狭間の英雄』なのです。

 

豊臣秀吉に出世争いで負ける明智光秀

 

この人物を取り込めば、自分が信長の後継者であることをアピールできる。そう考えたとしても不思議ではありません。秀吉は、小平太と本能寺の変の無念さを語り合い、口説きます。それにより、小平太は再度領主として返り咲くことを決意するのです。アラフォー(40才前後)で、秀吉の馬廻り「黄母衣衆(きぼろしゅう)」という側近として復帰。桶狭間で鮮烈なデビューを果たした英雄が、再び戦国の世に生きることにしたのです。

 

小田原征伐で戦功を上げ、遂に城持ち大名に!?

 

小平太は、秀吉の馬廻りの中でも、精鋭を集めた黄母衣(きぼろしゅう)衆の一員となりました。武勇で高名な戸田勝隆(とだかつたか)なども同僚です。新しい仲間たちと、柴田勝家(しばた かついえ
)
との一連の戦を歴戦。

 

長曾我部元親(長宗我部元親)鳥なき島のコウモリ

 

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにも出陣します。また、徳川家康(とくがわ いえやす
)
との対立の中で起きた小牧の戦い、四国の長宗我部元親(ちょそかべもとちか)との四国での戦などにも参加。昔のように、戦に明け暮れる日々でした。

 

石田三成

 

それなりに活躍していましたが、取り立てて武功をほめてもらえませんでした。秀吉は、この頃から石田三成(いしだ みつなり
)
や福島正則(ふくしま まさのり
)
、加藤清正(かとう きよまさ
)
など子飼いの武将たちを中心に出世させていきます。

 

「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」といった、分かりやすいキャッチコピーで彼らを内外にアピールしたりもしていました。信長亡き後にも、数々の大きな戦を行っていた秀吉。「桶狭間の戦い」の功績は信長のもので、それを喧伝することは自分にとって利益にならないと秀吉は考え始めていたでしょう。

 

「桶狭間の英雄」も利用する必要がなくなっていたのです。出世コースから完全に外れた小平太。秀吉への不満は募っていきます。そんな中、九州を平定した秀吉は、ある大きな戦を決意します。

 

金の亡者の豊臣秀吉

 

関東の北条氏との戦です。天正18年(1590年)、秀吉は『小田原征伐(おだわらせいばつ)』を行います。秀吉は、本能寺の変に乗じて、織田家との盟約を破棄し攻め込んだ北条氏を許していませんでした。また、その後も氏政・氏直親子は北関東に領土拡大を図り、素直に従いませんでした。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

そこで、秀吉は20万の大軍でもって包囲。まだ反旗を翻す恐れのある、毛利氏や伊達氏へみせつけるための意味合いもあったでしょう。秀吉の人生で、最も多い軍勢となりました。ここに小平太も参加しました。

 

城攻めをするシーン(日本戦国時代)モブ

 

記録は特にありませんが、同僚の戸田らが「砦を攻めた」という記述が文献にありますので、似たようなことをしていたと考えられます。その戦功として与えられたのが、三重の松坂城です。石高も3万5千石と立派です。小平太は、遂に一国一城の主となったのです。しかし、この人事は長年の功労賞のようなものだっといわれています。

 

しかも、秀吉直属の部下から、秀次付きへと配置転換もさせられます。本店営業部から地方の支店長にされるような感じでしょうか?

このことが、また小平太の人生を大きく左右することになります。

 

文禄の役(朝鮮半島への侵攻)にも参加

豊臣秀吉を信頼する織田信長

 

天下統一を果たした秀吉は、次なる戦を求めて朝鮮・明への侵攻を企てます。ずっと戦ばかりの織田家にいたせいでしょうか。戦がないと武士は手柄を上げることができない、というような考え方にとりつかれていました。

 

そして、文禄元年(1592年)遂に朝鮮へ出兵します(文禄の役(ぶんろくのえき))。これに、小平太も、800人の部下を連れて参加させられています。陣立てでは、八番隊のなかに『服部春安(はっとりはるやす)』という名前で残っています。破竹の勢いで、朝鮮の首都漢城(ハンソン)(いまのソウル)まで進軍したと伝わっています。しかし、異国の地で、小平太は昔を思い返していたことでしょう。

 

信長が大好きな柴田勝家

 

信長と一緒に無我夢中で戦っていたころ。桶狭間では、誰よりも速く駆け抜けたことなど。だが、これはなんだ。見知らぬ地まできて、朝鮮人たちと戦って、一体なんのための戦なのだ。などと考えていたかもしれません。そして、帰国した後に、また秀吉に振り回されていきます。

 

豊臣秀次の家臣とされたことが運のツキ?

 

このころの小平太の上司は豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)です。子供がいなかった秀吉は、甥の秀次を養子にして、後継者としました。文禄の役の前には、関白に就任させ、家督も譲っています。

 

秀吉は太閤として依然権力は保持していましたが、朝鮮のことで頭がいっぱい。秀次は内政を任されるようになり、新体制作りを進めていました。しかし、翌年秀吉の嫡子「秀頼」が誕生。

 

当初、秀吉は秀次の後に秀頼という順で継承していくと言っていました。しかし、その2年後、突然秀次に謀反の疑いがかけられます。今となっては真相は分かりませんが、全くの嘘だったともいわれています。ですが、秀吉は本能寺の変の体験があるので、謀反という言葉だけで拒否反応があります。

 

しかも、秀頼がいるので、跡継ぎには困らない。結局、秀次がどれほど申し開きしても許してもらえず、切腹させられることになります。そして、家臣の多くも切腹や島流しという処分を受けます。上杉景勝預かりになっていた小平太にも、切腹の命令が下ります。

 

こんな死に方をするなら、信長様の傍を離れず本能寺で一緒に散りたかった。二条城で、小藤太と毛利と共にでもよかったな。最期は、そんなことを考えていたかもしれません。武士は死に方を大切にするからです。桶狭間で、一番やりという快挙を成し遂げた代償に怪我を負ってしまった。そのせいで、思ったような人生と最期を迎えられなかった、という悲しいお話です。子供達は処分まぬがれ、後に徳川家の家臣となったと伝わっています。

 

戦国時代ライターしばがきの独り言

sibagaki(ライターしばがき)

 

よく、服部小平太は華々しいデビューをしたが、その後は伸び悩んだというように記述されます。それは、半分当たっていて、半分違うと感じます。どちらかといえば、スポーツ選手が怪我でつぶれていったというような話に近いでしょう。

 

小平太の傷は、人から桶狭間での伝説ということで称賛されたかもしれません。ですが、自分の体が思い通りに動かせないというもどかしさは、体が資本の武人の人生に暗い陰を落としたのではないでしょうか。もしかすると、怪我がなければ大大名にでもなっていたかもしれないと思います。

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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ライター自己紹介: 歴史はやっぱり戦争・動乱期に惹かれてしまいます。平和主義者なのに。。。 好きな歴史人物: カエサル(シーザー) 何か一言: 戦国最強は武田信玄。

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