孫権、実はみんなのかわいい弟分だった?

2020年8月3日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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孫権と劉備と曹丕

 

三国志のトップと言えば曹操(そうそう)劉備(りゅうび)、そして孫権(そんけん)。彼らが国を率いて王として戦っていく……というのは実は三国志の終盤のことなのですが、それでも彼らが三国の代表というのは間違いはないでしょう。

 

孫権と三国アヒル

 

そんな国のトップたちの中でも一代若いと言って良い存在、孫権。彼は孫家ではかわいい弟分だった?というのが今回のテーマですが、同時に彼がどうして晩年に色々と問題行動を起こしてしまったかも一緒に考察していきましょう。

 

若くして孫家を継いだ若者

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

孫権は早逝してしまった父と兄のあとを継ぎ、19歳という若さで孫家の当主となります。この時に孫権を支えたのは孫策(そんさく)の、更に言うならば孫堅(そんけん)の頃からの部下たちです。

 

呉の孫権

 

彼らがいたからこそ孫権がやってこれたというのは決して言い過ぎではないでしょう。

 

孫権と張昭

 

そして彼らにとっても孫権は二人のあとを継いで孫家のこれからを担うべき人物、もしかしたら色々と思う所もあったかもしれませんが、それでも周瑜(しゅうゆ)張昭(ちょうしょう
)
などはまだまだ若い孫権をそこから盛り立てていきました。

 

孫権の面相

孫権の髭

 

ここで少し孫権の面相、容貌についてご説明しましょう。孫権の容貌として有名なものに「碧眼紫髯(へきがんしぜん)」というのがあります。

 

碧眼は蒼い眼で、そして紫の髯というとちょっと色合いを想像して驚くかもしれませんが、実際には色が薄くて赤味が強い、赤紫色、もしくは茶色のような色合いであったようですこれは至高の面相とされ、父親であった孫堅は我が子に将来を期待していました。

 

それだけに志半ばで命を落としたのは家族にとっても家臣にとっても、孫堅自身も無念であったでしょう。

 

赤壁の戦いについて

赤壁の戦い

 

そんな孫堅の、そして孫策のあとを継いだ孫権はいきなり曹操(そうそう)という巨大な敵に直面せざるを得なくなります。この時に曹操に対しては家臣たちも判断が分かれ、主に周瑜は戦う道を、張昭は降伏する道を進言しました。

 

赤壁の戦いで活躍する黄蓋

 

この二人は孫策が没する際に、弟である孫権を深く頼んでいた人物たちです。最終的に孫権は戦いを選び、赤壁の戦いが始まることになりました。

 

後々に・・・

皇帝になることを決意する孫権

 

さて赤壁の戦いが始まることになったのが208年、そこから時が流れて229年にこんな話があります。229年に孫権は帝位に就くことになります。この時に孫権は「周瑜がいなければ今の自分がいなかっただろう」と述べました。

 

孫権と張昭

 

この際に張昭も周瑜を褒め称えようとしたところ、孫権は「もしあの時に張公(ちょうこう)(張昭)の言うことを聞いていたら今の私は乞食だっただろうな」と言って張昭を恥じ入りさせたと言います。

 

呉の孫権は皇帝

 

個人的にはこの逸話、孫権いじわるだなぁ……と思わずにはいられません。

孫権の存在

周瑜

 

赤壁の戦い時点で勝てるかどうかなどは誰にも分かりませんから、あの時点で周瑜たちの言い分はあくまで孫権の、ではなく孫家の……言ってしまえば乱世に名を立てようとした孫堅の、そして孫策の遺志を継いで欲しいという感情があってこそだと思います。

 

悪の正義バットマン風 曹操

 

対して張昭らの降伏意見はあくまで孫権の身を思ってのことでしょう。曹操の元で生き永らえることは決して悪い判断ではなかったでしょうから。どちらが正しいという訳ではなく、どちらも色々考えていてのことであり、孫権は結果として戦う道を選び、そして勝利してからの結果。なのでここで今になって張昭のことを持ち出すのはなんとも厭らしいなぁ……とちょっと思ってしまいます。

 

孫権と張昭

 

とはいえ張昭は張昭で中々に口うるさい頑固爺さんなので孫権の態度も分からないでもないのですけどね。

 

上手くやっていた諸葛瑾

諸葛瑾

 

その一方で、上手く孫権の相手をしたのが諸葛瑾(しょかつきん
)
です。諸葛瑾は良く孫権を諫める立場でしたが、彼の諫め方は比較的穏やかで、悪く言うとやや対応が甘いところがあります。

 

会見に出たがらない孫権

 

しかし張昭らへの孫権への態度を見ると、孫権は言われると反抗したり、その後ネチネチ嫌味を言ったりと余りよろしいものではありません。

 

本当は蜀と同名を結びたい孫権

 

そう考えると穏やかに甘やかしてくれる、それでもしっかりやらなきゃいけないところはさせる、諸葛瑾は孫権にとって居心地がよい相手だったのかな、なんて思っています。

 

失ってから

酒癖が悪い孫権

 

口うるさい張昭が亡くなったのが236年。241年に諸葛瑾も亡くなります。そして孫権の問題行動はこの頃から起き始めています。前述したように孫権は若くして父と兄を亡くし、それから考えると彼らと一緒に過ごした時間の方が長かったでしょう。

 

孫権に気に入られる孫覇

 

孫権は孫権自身でも気付かないまま、息子や弟のように彼らの存在に甘えていたのではないかと思います。自覚がなかったからこそ、今度は自分がそういった見守る立場にならなければならなくなった時に上手くできなかったのでは……どうしても、そう考えてしまうのですよね。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

孫権家臣団、当然ながら最初の頃はほとんど孫権よりも年上ばかりです。だから孫権は彼らにとって主君でもあり、かわいい弟分であり、手のかかる息子のようなものでもあったのでしょう。そして孫権もまた、彼らに甘えていたのではないでしょうか。そう思うと晩年の事件は19歳という若さで家を背負った孫権の悲哀が後になってやってきた、とも思わせる、何とも言えない気持ちになって来てしまいますね。

 

参考文献:

呉書呉主伝 張昭伝 諸葛瑾伝

 

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呉の武将

 

呉の武将

 

 

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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