三国志のトップと言えば曹操、劉備、そして孫権。彼らが国を率いて王として戦っていく……というのは実は三国志の終盤のことなのですが、それでも彼らが三国の代表というのは間違いはないでしょう。
そんな国のトップたちの中でも一代若いと言って良い存在、孫権。彼は孫家ではかわいい弟分だった?というのが今回のテーマですが、同時に彼がどうして晩年に色々と問題行動を起こしてしまったかも一緒に考察していきましょう。
若くして孫家を継いだ若者
孫権は早逝してしまった父と兄のあとを継ぎ、19歳という若さで孫家の当主となります。この時に孫権を支えたのは孫策の、更に言うならば孫堅の頃からの部下たちです。
彼らがいたからこそ孫権がやってこれたというのは決して言い過ぎではないでしょう。
そして彼らにとっても孫権は二人のあとを継いで孫家のこれからを担うべき人物、もしかしたら色々と思う所もあったかもしれませんが、それでも周瑜や張昭などはまだまだ若い孫権をそこから盛り立てていきました。
孫権の面相
ここで少し孫権の面相、容貌についてご説明しましょう。孫権の容貌として有名なものに「碧眼紫髯」というのがあります。
碧眼は蒼い眼で、そして紫の髯というとちょっと色合いを想像して驚くかもしれませんが、実際には色が薄くて赤味が強い、赤紫色、もしくは茶色のような色合いであったようですこれは至高の面相とされ、父親であった孫堅は我が子に将来を期待していました。
それだけに志半ばで命を落としたのは家族にとっても家臣にとっても、孫堅自身も無念であったでしょう。
赤壁の戦いについて
そんな孫堅の、そして孫策のあとを継いだ孫権はいきなり曹操という巨大な敵に直面せざるを得なくなります。この時に曹操に対しては家臣たちも判断が分かれ、主に周瑜は戦う道を、張昭は降伏する道を進言しました。
この二人は孫策が没する際に、弟である孫権を深く頼んでいた人物たちです。最終的に孫権は戦いを選び、赤壁の戦いが始まることになりました。
後々に・・・
さて赤壁の戦いが始まることになったのが208年、そこから時が流れて229年にこんな話があります。229年に孫権は帝位に就くことになります。この時に孫権は「周瑜がいなければ今の自分がいなかっただろう」と述べました。
この際に張昭も周瑜を褒め称えようとしたところ、孫権は「もしあの時に張公(張昭)の言うことを聞いていたら今の私は乞食だっただろうな」と言って張昭を恥じ入りさせたと言います。
個人的にはこの逸話、孫権いじわるだなぁ……と思わずにはいられません。
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