あまたの名将が1世紀もの間、生き残りのしのぎを削った戦国時代。
しかし、江戸時代前期の兵学者、大道寺友山が著わした落穂集によれば、戦場において千人が戦死した場合、武士の戦死は百人から百五十人、残りの八百五十人は農民や下人だったと記録されています。
そんな派手な合戦の地味な主役、足軽ですが合戦に勝った時には褒美なんてあったんでしょうか?
この記事の目次
足軽はどうやって合戦に出されたのか?
そもそも、普段は農業に従事している農民たちは、どうやって合戦に参加したのでしょう?
戦国時代の農民の動員については、2つの方法がありました。1つは、百姓大量動員体制で、もう1つは寄子・寄親制を利用した地侍の動員です。まず、最初に百姓大量動員体制を見て見ましょう。
戦国大名、小田原北条氏は天正15年(1587年)7月の晦日に、豊臣秀吉の小田原攻めが近いと見て、「定」という定型文を一斉に各郷村に配布している事が分かっています。
定は、現代で言う徴兵令で郷村の規模により徴兵される数に違いはあるものの、村ごとに、大体5人とか6人、年齢15歳から70歳までの男子が徴兵されました。
定では、徴兵されたものは、弓、鉄砲、鑓のどれかを持参するよう義務付けられ、さらに腰に旗指物を差して、ひらひらとはためかせて、武士らしく見えるようにせよと細かい注文までついています。
このような細かい規定を見ると、北条氏が定の運用に慣れていて、農民もそれなりに合戦に熟達していたのかも知れません。
寄親・寄子制
もうひとつの大量動員の方法が寄親・寄子制です。
寄親とは、戦国大名の重臣クラスで国人とか国衆と呼ばれ戦国大名の領内で支城を支配していました。寄子は、寄親の支配下にある地侍や土豪の事で、彼らは半農半士で合戦がない時には農地を耕し、合戦があると寄子として寄親に従っていました。
寄子は規模の小さな自作農で、武器防具と言っても一領具足しかもっていませんが、名字を持っていて「名字ノ百姓」と呼ばれ、普通の農民よりはランクが上でした。
そして注目すべきは寄子は、寄親を通じて戦国大名と御恩と奉公の関係で結びついていた事です。合戦で勝つと寄子には大名から褒美として領地や戦利品が与えられ、そうでなくても、年貢の免除などの特権がもらえました。
この寄子には軍役として、一定の人数を率いる事が決められていて、寄子が率いるのが被官と呼ばれる家人、郎党で、彼らは小作料免除などの特権を認められて従軍します。
寄子は半農半士とはいえ、合戦が多い戦国時代には、地侍は軍役の働きばかりと言われ、農業は副業で、いつでも出陣できるように臨戦態勢を整える事が求められていました。
足軽の褒美は乱取り
寄子・寄親については合戦による褒美か年貢の免除の特典がありましたが、では、農民から徴兵された足軽の褒美はどうなのでしょうか?
足軽農民でも抜群の手柄があれば褒美があった事実は、北条氏の武州文書や、武田氏の甲陽軍鑑から明らかになっています。しかし、あくまでも抜群の手柄があった場合であって、ほとんどの足軽農民は無我夢中で戦う間に合戦が終わるので、敵兵の首1つ取るチャンスさえ、あまりないのが現実でした。
つまり、農民に取り、褒美は縁遠いものだったのです。
では、足軽農民にとっては、合戦は嫌々参加させられる苦役だったのかと言えば、そうとも限りません。褒美がない代わりに足軽農民には乱取りという戦後の略奪が許されていたからです。
戦国大名に黙認された乱取り
乱取りとは、略奪行為の事で、敵地の民家に押し入り、家財道具や蓄えられていた米などの食糧や、もちろん人もさらいます。本来、乱取りは支配した土地の住民の反感を買うので戦国大名は禁止しているのですが、乱取りは足軽農民への褒美の役割を果たしていたので完全に制止するのは困難でした。
また、いつでも乱取りが許されるのではなく、ある程度、合戦の勝利が確定した所で、総大将より乱取り自由の許可が出て、はじめて足軽の乱取りが開始されます。
最近の研究では、桶狭間の戦いの時、織田方の鷲津砦と丸根砦を落とした今川義元が、雑兵に乱取りを許した所、そこに信長の軍勢が殺到し、雑兵が散って少数の今川軍は支えきれずに、義元が首を討たれたという指摘もあるようです。
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