皆さん三国時代の曹丕(そうひ)が後漢の皇帝である献帝から帝位を簒奪(さんだつ)
(継承資格のないものが武力や政治的圧力で脅して譲る事)したのは知っていると思います。
中国史上初めて帝位を簒奪し、皇帝の位に就いた人物をご存知ですか。
今回は中国史で初めて皇帝の位を簒奪した人物・王莽(おうもう)をご紹介したいと思います。
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この記事の目次
まじめな青年期
王莽の叔父たちは、皇后である王政君の知り合いであることから貴族となり、裕福な暮らしをしておりました。
しかし、王莽の家は貴族なれず、貧しい暮らしを強いられてしまうのです。
王莽は貧しいながらも必死に勉学に励んだそうです。
そんな中、王莽の人生を変える知らせが届きます。
大将軍である叔父・王鳳(おうほう)が病で倒れてしまったそうです。
王莽は、勉学の傍ら王鳳の看病を続けますが、王鳳は、亡くなってしまいます。
ですが、王鳳は一つの置き土産を王莽に残していきます。
はじめての三国志クイズ!
さてここで恒例の初めての三国志クイズです。
王鳳が残した置き土産とは一体なんでしょう。
1大将軍である王鳳の財産を相続させた。
2自分の刀をあげた
3皇帝に「王莽の事をよろしくお願いします。」と遺言を残した。
さて1~3の中からお答えください。
1・2・3にゃ~。
終了で~す。
答えは3番の皇帝に遺言を残したです。
王鳳が残した遺言の内容
王鳳は看病してくれた王莽に報いるため、前漢皇帝である成帝に「王莽の事をどうかよろしくお願いいたします。」と王莽の為に遺言を残していくのです。
ここから王莽の人生は一気に変わります。
飛ぶ鳥を落とす勢いを見せる王莽
王莽は王鳳の死後、皇后・王政君や朝廷の実力者が後ろ盾となったおかげで、順調に出征街道を突き進みます。
今まで貧乏であったのが、一気に変わり、豪華な家を建てて、使用人を何人も召し抱える程になりました。
王莽が大司馬(今でいうと国防長官クラス)になると敵対する人間はほとんどいなくなり、正に飛ぶ鳥を落とす勢いを見せる程の権力者になります。
しかし成帝が亡くなり、哀帝が帝位に就きます。
哀帝は、外戚(皇帝の親戚)が権力を持ちすぎていることが気にくわない為、外戚を排除していきます。
王莽も外戚であったため、官職を取られ、朝廷から追い出されてしまいます。
しかし王莽は、自分が復帰できるように、復帰嘆願書を大量に書かせる事で、再び朝廷へ戻ってくるのです。
皇帝を殺害し、新たな皇帝を立てる
王莽は朝廷へ戻ってからすぐに、自分を追放した哀帝を殺害します。
その後中山王を皇帝へ就かせ、彼は大司馬へ返り咲きます。
その後、数々の政策を行うと同時に、民衆からの人気を集めるため、自分の長男や次男が罪を起こした際、二人を殺します。
王莽は次第に民衆から人気を獲得する
王莽は、罪を起こした者には、身内ですら容赦しない姿を演出することで、民衆からの人気を獲得するのです。
王莽は民衆からの人気を得た事で、自分を批判する者が居なくなったと確信し、自分の娘を皇帝の奥さんにして、皇后にします。
ここまでは、権力を握った横暴極まりない姿ですが、彼の暴走はさらに加速します。
王莽は哀帝を殺し、幼い皇族を皇太子に就かせて、自らを「摂皇帝」と称して、国の政治を自分の思い通りに操り始めるのです。
皇帝の位を簒奪
王莽は、自分が皇帝になるべく動き出します。
皇帝の位を手に入れるため、まず古文を引用して、自らが皇帝の位を継承するにふさわしい理由付けを行います。
次に「金策書」と言う符命を偽造します。
これら二つの理由づけにより、王莽が天命を受けて皇帝になる人物であると、国中に噂を流します。
王莽は、民衆からの支持と朝廷内の群臣の支持によって、中国史上初の禅譲(現在の皇帝から皇帝の位を譲り受ける意味)を果たし、自ら皇帝の位に就く事になりました。
「漢」は滅び「新」を建国
ここに漢は滅び、新たに「新」の国が誕生いたしました。
王莽は皇帝に就くと、漢の制度を改め、独自の政策を発令します。彼が行った政策はすべて失敗に終わり、民衆の生活は破綻し、困窮を極めます。
そのため、各地で反乱が相次いで勃発します。
王莽の最期
王莽は反乱を鎮圧しようと軍を派遣しますが、反乱を鎮圧する軍勢はことごとく敗れます。
王莽が首都に定めた、長安が反乱軍によって、落とされ王莽は捕えられて処刑されてしまいます。
王莽の死体は、多くの民衆や反乱軍の兵士に細切れにされたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
禅譲は、三国時代にも出てくる言葉であるため、中国史上初めて、帝位を簒奪した人物のお話をさせていただきました。
王莽の死後をざっくりと説明します。
王莽の死後も国中が乱れ、中々統一されませんでした。
しかし、一人の若者が出現することで、この国は統一へと導かれます。
その若者こそ、初代・後漢皇帝である劉秀(りゅうしゅう)です。
劉秀も今後取り上げていく予定ですので、興味のある方は、ご覧になっていただければと思います。
これからも三国時代を中心に色々なお話をご紹介していきますのでよろしくお願いします。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
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