馮習は字を休元と言い、荊州南郡に産まれました。若い頃から劉備に仕え入蜀にも従い、夷陵の戦いでは領軍として全軍をまとめる地位にありながら陸遜の火計に遭遇して蜀軍を大敗させ、自身も戦死しています。
損害の規模から言えば、街亭で敗れた馬謖よりもひどいですが、自身も戦死したせいか、あんまり責められず、劉備の失敗がクローズアップされ地味な存在です。今回は馮習の生涯について解説します。
この記事の目次
馮習とはズバリ!
では、馮習について早く知りたい人の為に、今回の記事のポイントをまとめます。
1 | 馮習は荊州南郡の人で劉備の入蜀に従い出世 |
2 | 正史に馮習の伝はなく、楊戯の季漢輔臣賛に登場 |
3 | 楊戯の評価は敵を軽んじ国家に損害を与えて死を招き 劉備の失態を拡散し蜀の将来に影響を与えたと最低ランク |
4 | 夷陵の戦いでは初戦で呉軍を蹴散らし増長 |
5 | 戦いの終盤で領軍として全軍を統括するが 陸遜の火攻めに大敗し討死。 |
6 | 結局、劉備に引きずられ巻き添えを喰らった人? |
以上、おおまかに馮習を説明した所で、詳しい解説に入ります。
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正史では伝が立てられていない馮習
夷陵の戦いでは全軍を統べた馮習ですが、正史三国志に伝がありません。馮習が出てくるのは、蜀の楊戯が書いた季漢輔臣賛の中であり、しかもほとんど非難されています。
ちくま書房の正史三国志5蜀書では、以下の通り
休元(馮習)は敵を軽んじた為、国家に損失を与え死を招き、文進(張南)は奮闘して、ともにこの敗北で命を失った。災難は1人(先主)(の軽率)から生まれ、広大な影響を与えた。
ちくまの訳では、災難は劉備から生まれたとされていますが、ここには主語が無いので、1人の災難を、劉備ではなく馮習と解釈しているケースもあり、その場合、馮習の責任は劉備よりも重い印象になります。
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馮習が呉を侮った理由
では、馮習はどうして呉を侮ったのでしょうか?
これはやはり初戦において、馮習が呉班と共に呉の李異・劉阿らの軍勢を難なく撃破したからだと考えられます。
これらは陸遜の作戦で、蜀軍を呉の領地深く誘い込んで一網打尽にする計略でしたが、馮習は気づかず、呉軍を弱いと誤認したと推測できます。
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黄権の離脱後 劉備に気に入られたか?
夷陵の戦いは、黄権が否定的な見解を示していて、劉備に対し「自分が先陣を受けるので、陛下は後方に控えていて下さい」と進言し、不快に思った劉備は黄権を鎮北将軍として魏に対抗させ、自身は総大将として、より呉の領地に深入りしていきます。
この時に、黄権に同調して劉備を諫める人物はいなかったようなので、馮習も連戦連勝のイケイケムードで完全に陸遜のペースにはめられていたのでしょう。
そして、劉備は恐らく、自分と同じく呉を攻め滅ぼすまでイケイケで押しつぶせと主張する馮習を気に入り領軍に任命したのだと考えられます。
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