忠節の果てに、父親の作り上げた晋王朝の行く末を案じながら、悲運の最期を迎えた司馬乂。
その次に出てくるのが司馬穎、司馬乂の弟であり、最終的に兄と対峙した存在です。今回はそんな八王の乱のメンバーの一人、イケメンで有名な(?司馬穎についてご紹介しましょう。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきますので胃薬のご用意などをおススメします。
成都王・司馬穎
兄には恵帝・司馬衷、楚王・司馬イ、長沙王・司馬乂。弟には懐帝・司馬熾がいます。幼い頃は聡明で、顔立ちが良いと評判の人物でした。
299年に司馬衷の子と賈謐が囲碁を打っていて口論となった際に
「皇太子は国の世継ぎであるのに何様だ」と罵倒したことで警戒され、賈謐によって宮中から追い出されて転付されました。
しかし司馬倫らのクーデターに参戦、軍事力を持っていたためか司馬倫から目をかけられるも、
その後、司馬ケイの司馬倫討伐にすぐ参戦。戦後、功績によって九錫を与えられました。因みに司馬ケイも九錫を与えられました。
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大盤振る舞い(するものではない)
この九錫は「禅譲を受ける下準備」と言われる権威象徴みたいなものでこんなに大盤振る舞いするものではないのですが、ここで司馬ケイと司馬穎の明暗が分かれます。
側近が司馬穎に「敢えて断って国に返って人心掌握しましょ」と囁きました。司馬穎はこれを取り入れて謹んで辞退。
後に司馬冏はやらかし放題を尽くして嫌われていく間に、司馬穎は「謙虚な人だ」と人々に評されるようになります。
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想定・乂
時代は少し動いて302年。恵帝・司馬衷の直系の世継ぎが途絶えました。このため時期皇帝には実弟である司馬穎、という声が上がってきます。
ですがこれを嫌がった司馬ケイは恵帝・司馬衷の弟の子である、まだ八歳であった司馬タンを擁立しました。
ここで司馬穎は司馬ギョウと組み、司馬ケイ討伐に乗り出します。
が、ここで想定外が起こります。使い捨てにするはずだった司馬乂の思わぬ活躍で、司馬乂が時の権力者にのし上がってしまったのです。
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