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司馬穎とはどんな人?死んでからも利用された八王の乱の一人

2021年5月5日


はじめての三国志_ページネーション

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司馬穎とは?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬乂との対立

司馬穎に必ず報告、相談、連絡をしていた司馬乂

 

司馬乂は司馬穎に良く気を使い、何かを決める際には必ず報告、相談、連絡を欠かさないようにしました。

 

司馬乂の謙虚な振る舞いが気に食わない司馬穎

 

しかし既に司馬乂がそんな立場になっているのが気に入らない司馬穎と司馬ギョウは、

 

司馬衷に司馬乂を討伐しましょうと提案する司馬穎

 

恵帝・司馬衷に「奸臣(かんしん
)
司馬乂の討伐」を上奏するも、なんとここでやっと恵帝立ち上がる。

 

司馬衷は司馬顒を討伐するよう司馬乂に要請し自らも出陣

 

(ちん)自ら逆賊を成敗するぞ!」と司馬穎と司馬ギョウの討伐を司馬ガイに指示。

 

二十万近くの連合軍に包囲された司馬乂だけど打ち破る

 

それでも大軍を持っている二人が司馬乂に負けるはずがない……と思ったけれど司馬乂が強すぎました。

 

捕らわれた際に司馬衷に上奏文を送る司馬乂

 

この間に押し付けと八つ当たりで陸遜(りくそん)の孫が死んだりしますが、最終的には司馬越(しばえつ)の判断によって司馬乂は捕縛(ほばく)。司馬穎の辛すぎる勝利となりました。

 

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晋王朝の崩壊

豪遊する司馬穎

 

こうして勝利した司馬穎、正にこの世の春が訪れたとばかりに豪遊する様をみた人々の心はどんどんと離れていきました。

 

三国志のモブ 反乱

 

そこで司馬越によるクーデターが起こるも、何とかこれを撃退。次なる敵は幽州(ゆうしゅう)王浚(おうしゅん)でしたが、これを暗殺しようとしたことが失敗、露呈(ろてい
)
して王浚(おうしゅん
)
と司馬越が手を組むという最悪の状態を迎えます。

 

劉淵に匈奴を集めるよう指示する司馬穎

 

ここで焦った司馬穎、南匈奴(みなみきょうど)劉淵(りゅうえん)を取り立て、分割させていた南匈奴の兵士たちを集結させてしまいます。

 

劉淵は司馬穎を助けようとしないことを決める

 

この後何が起こるかは大体想像が付くでしょう。

 

「漢」を建国宣言して勝手に独立した劉淵

 

王浚と戦おうとするも敗北、劉淵は手助けなどすることはなく「漢」を建国宣言して独立してしまいました。因みに成都(せいと)では李雄(りゆう)によって「大成(だいせい)」が建国宣言され、晋王朝は崩壊してしまったのです。

 

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司馬穎の大きかったやらかし

匈奴の劉淵

 

ここで思い出して欲しいのが、各地に分散していた異民族。どうしてこんなことをしていたかと言うと、当然ながら集結したら一大勢力になってしまうからですが、よりにもよって司馬穎はそんな異民族たちを「集結してもいいよ!」とそのトップになる劉淵に許してしまったのです。

 

野望を抱く劉淵

 

こんな最大のチャンスを与えられたのに、劉淵が動かない訳がないでしょう。正に晋王朝の根本を揺るがす大ポカ、やらかしをやってしまったのが司馬穎、繰り返しますが彼は「司馬炎の息子」なのです。お父さんもびっくりだよ。

 

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司馬穎の最期とその後

司馬顒と組み、司馬冏討伐に乗り出す司馬穎

 

そんな中で権力を握ったのが(かつ)て手を組んだ司馬ギョウ。司馬ギョウは司馬穎を廃位、一度はチャンスを与えられるも司馬越、王浚の連合軍を抑えることはできず、後に司馬穎も死を命じられます。

 

配下に首を絞めさせて死んだ司馬穎

 

最期は観念して配下に首を絞めさせて死んだ司馬穎、その遺体は重臣によって棺に入れて埋葬されたのですが、ここでとんでもないことが起こりました。

 

イケメンで有名な司馬穎

 

司馬穎は嘗て人気があり、死んでなお河北ではまだ彼を慕う人たちがいたのです。それに目を付けた人物がその棺を掘り返して復讐戦を開始します。

 

炎上する城b(モブ)

 

幾度もの争いの後にこれらは討伐されるも、司馬穎の棺は井戸に捨てられました。再び部下がその棺を探し出してやっと埋葬され、司馬穎は静かに眠れることになったのでした。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

最期こそやはり他の八王の乱のメンバーと同じく権威に胡坐(あぐら)をかいてやりたい放題して凋落した司馬穎。ただしその後の出番(?)から見る限り、彼の人望は本物でもあったと見受けられます。

 

司馬攸は宿所で血を吐いて38歳で亡くなる

 

正直この司馬穎のやらかしが晋王朝に止めを刺したと思うのですが、まあそれは別の機会に詳しくやりましょうか。

 

センさんが三国志沼にドボン b

 

もうちょっとだけ続く八王の乱、次回も更なる深みへ……ちゃぷん。

 

参考文献:晋書列伝第十 列伝第二十九

 

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八王の乱

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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