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司馬乂との対立
司馬乂は司馬穎に良く気を使い、何かを決める際には必ず報告、相談、連絡を欠かさないようにしました。
しかし既に司馬乂がそんな立場になっているのが気に入らない司馬穎と司馬ギョウは、
恵帝・司馬衷に「奸臣司馬乂の討伐」を上奏するも、なんとここでやっと恵帝立ち上がる。
「朕自ら逆賊を成敗するぞ!」と司馬穎と司馬ギョウの討伐を司馬ガイに指示。
それでも大軍を持っている二人が司馬乂に負けるはずがない……と思ったけれど司馬乂が強すぎました。
この間に押し付けと八つ当たりで陸遜の孫が死んだりしますが、最終的には司馬越の判断によって司馬乂は捕縛。司馬穎の辛すぎる勝利となりました。
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晋王朝の崩壊
こうして勝利した司馬穎、正にこの世の春が訪れたとばかりに豪遊する様をみた人々の心はどんどんと離れていきました。
そこで司馬越によるクーデターが起こるも、何とかこれを撃退。次なる敵は幽州の王浚でしたが、これを暗殺しようとしたことが失敗、露呈して王浚と司馬越が手を組むという最悪の状態を迎えます。
ここで焦った司馬穎、南匈奴の劉淵を取り立て、分割させていた南匈奴の兵士たちを集結させてしまいます。
この後何が起こるかは大体想像が付くでしょう。
王浚と戦おうとするも敗北、劉淵は手助けなどすることはなく「漢」を建国宣言して独立してしまいました。因みに成都では李雄によって「大成」が建国宣言され、晋王朝は崩壊してしまったのです。
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司馬穎の大きかったやらかし
ここで思い出して欲しいのが、各地に分散していた異民族。どうしてこんなことをしていたかと言うと、当然ながら集結したら一大勢力になってしまうからですが、よりにもよって司馬穎はそんな異民族たちを「集結してもいいよ!」とそのトップになる劉淵に許してしまったのです。
こんな最大のチャンスを与えられたのに、劉淵が動かない訳がないでしょう。正に晋王朝の根本を揺るがす大ポカ、やらかしをやってしまったのが司馬穎、繰り返しますが彼は「司馬炎の息子」なのです。お父さんもびっくりだよ。
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司馬穎の最期とその後
そんな中で権力を握ったのが嘗て手を組んだ司馬ギョウ。司馬ギョウは司馬穎を廃位、一度はチャンスを与えられるも司馬越、王浚の連合軍を抑えることはできず、後に司馬穎も死を命じられます。
最期は観念して配下に首を絞めさせて死んだ司馬穎、その遺体は重臣によって棺に入れて埋葬されたのですが、ここでとんでもないことが起こりました。
司馬穎は嘗て人気があり、死んでなお河北ではまだ彼を慕う人たちがいたのです。それに目を付けた人物がその棺を掘り返して復讐戦を開始します。
幾度もの争いの後にこれらは討伐されるも、司馬穎の棺は井戸に捨てられました。再び部下がその棺を探し出してやっと埋葬され、司馬穎は静かに眠れることになったのでした。
三国志ライター センのひとりごと
最期こそやはり他の八王の乱のメンバーと同じく権威に胡坐をかいてやりたい放題して凋落した司馬穎。ただしその後の出番(?)から見る限り、彼の人望は本物でもあったと見受けられます。
正直この司馬穎のやらかしが晋王朝に止めを刺したと思うのですが、まあそれは別の機会に詳しくやりましょうか。
もうちょっとだけ続く八王の乱、次回も更なる深みへ……ちゃぷん。
参考文献:晋書列伝第十 列伝第二十九
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