ぐだぐだにぐだぐだを重ねて重ねた八王の乱、ついに終結。しかしその八王の乱の終結は晋王朝の終結でもありました。
今回はついにここまでやってきた、八王の乱のメンバーの一人、司馬越についてご紹介します。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきますが最後まで味わい尽くして下さると幸いです。
東海王・司馬越
司馬越の祖父は司馬懿の弟である司馬馗という人物で、司馬炎からすると司馬越ははとこに当たります。司馬越は幼い頃から周囲から評価され、しかも謙虚で質素倹約な性格である人物として司馬家の中でも評判の人物でした。
その評判もあってか彼は司馬衷の皇太子の側近に任ぜられます。
そしてそんな司馬越が更に評価を挙げたのが291年。司馬瑋らのクーデターで功績を挙げた司馬越は東海王に封じられ、その後は司空にまで昇進しています。
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八王の乱への参加
そんな司馬越が八王の乱に参加していくのは司馬乂と司馬穎、司馬顒の戦いが始まってからのこと。
当初から司馬ガイが優勢で勢いがあり、エイ、ギョウの部隊は追い詰められていました。
しかしそれは戦地にいてこそ分かるもの、洛陽にいた司馬越はこのままでは物資が枯渇する、司馬ガイが負けると判断して司馬ガイを拘束、エイとギョウに降伏したのです。
しかし蓋を開けてみれば司馬ガイの優勢は火を見るよりも明らか、やっぱりもう一度司馬ガイ殿に戦って貰った方が……という空気が漂い始めた洛陽、
このままではまずいと判断した司馬越は即刻で連絡を取り、幽閉されていた司馬ガイを焼き殺したのです。
ここから司馬越は八王の乱の一人となっていきます。
八王の乱で残るは二人
壊滅的な状況から勝者になった司馬エイはすぐさま横暴な振る舞いをするようになっていき、今度はこれを取り除くべく司馬越は恵帝からの承認を持って司馬エイ討伐軍を結成。
これに対抗するべく司馬エイは石超に兵を与えて対抗するのですが、ここで司馬エイの土地からの逃亡者からの情報で司馬エイは大したことないと思い込んだ司馬越は大敗北、恵帝まで捕らわれてしまいます。
しかし王浚の協力を手にしてこれに対抗、司馬エイはこの敗北で失脚し、八王の乱の残るメンバーは司馬越と司馬ギョウのみとなりました。
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残った勝者・司馬越
最終的に勝者となったのは司馬越でした。
306年、長安陥落によって司馬ギョウの勢力は滅び、司馬ギョウ、そして司馬エイは同年に死亡。しかし同年に恵帝まで亡くなります。
恵帝は麺餅というおやきのような食べ物を食べた際に食中毒で急死、突然すぎたために後継者は急遽司馬熾(司馬炎の25男)を擁立して、その補佐役として司馬越が選ばれました。
この食中毒には司馬越が何らかの関与をしているとも言われていますが、実際は分かりません。ともあれ司馬越が最後に生き残り、八王の乱の終結、そして勝者となったのです。
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