呉のラストエンペラー孫晧は、在位年数が10年以上と長い割に暴君イメージが強く、魏にとっては大した脅威にならなかったように描かれます。
呉よりも国力の劣る蜀でさえ五度の北伐を繰り出したのに情ないとお嘆きの呉ファンもいるかも知れませんが、驚くなかれ孫晧は一度北伐を企んで、そして失敗していたようなのです。
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建衡三年、孫晧北伐開始
孫晧の北伐の記述は、呉志三嗣主伝に登場し、内容は以下のようです。
建衡三年(271)春正月の末日、孫皓が多くの手勢を率いて華里(建業西方)に出御し、孫皓の母および妃妾もみな随行したが、東観令華覈らが堅く諫言したので帰還した。
とても、あっさりした内容で、見ようによってはただの一族を引き連れての巡幸に見えますし、諫言も贅沢を誡めたものに見えますが、この出来事は晋書、武帝紀にもあり、随分と意味合いが違うのです。
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晋書では戦争として捉えている
では、逆に攻め込まれた晋の記録、晋書武帝紀の271年の部分を見てみましょう。
泰始七年(271年) 三月、孫晧が人民を率いて寿陽に赴いた。大司馬の司馬望を淮北に駐屯させこれを防いだ。
晋書では、孫晧の物見遊山とは考えておらず大司馬の司馬望を淮北に駐屯させて防いでいます。この時、司馬望は中軍2万と騎兵3000を率いたそうですが、間もなく孫晧が撤退したので、戦を交える事無く退却しました。
司馬望は、司馬懿の兄弟司馬孚の子で、対蜀戦線では姜維を牽制して付け入る隙を与えなかった名将であり、司馬炎が孫晧の行動を割と深刻に見ていた様子が窺えます。
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晋書では丁奉も魏に侵攻
また、呉志三嗣主伝にも呉志、丁奉伝にも記載がありませんが、晋書、武帝紀には、西暦270年の正月には、呉の丁奉が魏の渦口に侵攻した記録があります。
呉の武将の丁奉が渦口に侵入。揚州刺史牽弘が攻撃し敗走させた。これは丁奉の単独行動と言う事もないでしょうから、この時期、孫晧は活発に魏領を狙っていたのかも知れません。
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孫晧の北伐の理由
では、どうして孫晧は北伐に意欲を見せたのでしょうか?
これは、頻繁に起きていた、呉から魏への逃亡者を阻止する目的と思われます。孫晧が北伐を起こす少し前、夏口都督孫秀が晋に投降しました。この孫秀は呉の皇族で人望が厚く、その為に前将軍として最前線の夏口を守っていました。
しかし、その人望から孫晧に猜疑され、身の危険を感じて晋に逃亡したとされます。ところが、これは孫晧にとっては威信を大きく傷つけられる事でした。皇族で、しかも呉と晋の国境を守る重要人物が、こともあろうに宿敵の晋に投降したという事は、孫晧の統治能力にケチがついたも同然です。
孫晧は、これで自己の求心力が低下する事を恐れて、晋を恐れない強い皇帝のイメージがどうしても必要になり、自ら親征してみせたのではないでしょうか?
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再び威信が潰れる孫晧
ところが、親征から帰還して間もなく、今度は孫秀の部隊長の何崇が人民五千人を率いて晋に投降するという事件が起きています。良いとこなしの孫晧ですが、同年には虞汜と陶璜が晋に奪われていた交阯に攻め込み、晋の将軍を捕らえて殺し、九真、日南郡の支配を回復するというめでたい事もありました。
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