劉曄は光武帝の子、阜陵王劉延の血筋を引く後裔です。少年時代からやる時はやる人で、亡母の遺言を実行して13歳で父の知人を殺害したり、数千の私兵を擁する小群雄の鄭宝を、刺客を待ちきれず自分で殺害する等、後漢のプリンスにしては血を恐れない豪胆な人物で少し劉備に似ています。
一方、曹操に仕えた後の劉曄は、荒々しさが消え人物観察が百発百中の軍師へと早変わりするのです。
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13歳の時、母の遺言を守り父の部下を殺害
劉曄は字を子揚と言い、淮南成悳の人で漢の光武帝の子である阜陵王劉延の後裔。父は劉普、母は脩と言い同母兄に劉渙がいました。
劉曄が7つの時に、母の脩は病気に苦しみやがて臨終しますが、死の床で劉曄と劉渙を呼び、とんでもない事を言い出します。
「夫が親しく付き合っているあの部下は媚び諂う性質です。私の死後に家を乱すかも知れません。今懼れるのはその事のみです。お前達が成長し、部下を除く事が出来れば思い残す事はありません」
おいおい!お母さん、子ども達に何とトンデモナイ事をと突っ込みたくなりますが、この遺言を劉曄は大真面目に聞いていました。
劉曄は13歳になると2歳上の劉渙に
「今こそ亡き母の言葉を実行すべきです」と言います。しかし劉渙は「父上の部下を殺すなんてとんでもない」と賛成しませんでした。
そこで劉曄は単独で入室して父に侍る部下を斬り殺し、ただちに外に出て母の墓に報告します。人々は大いに驚き、劉普に告げると劉普は激怒して人を遣わして劉曄を追わせました。
劉曄は帰還すると陳謝して「亡き母の遺言です。前もって許可を受けずにやった事の咎なら甘んじて受けましょう」劉普は心中で思い当たる点があり、劉曄の罪を問いませんでした。
劉曄は子供でも、やる時はやるという空条承太郎のようなタイプだったのです。
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私兵団のボス鄭宝に強引にスカウトされる
劉曄が成人した後、天下は乱れはじめ、揚州の鄭宝という男が私兵を集めて江表に割拠しようと野望を見せます。鄭宝は勇猛で決断力があり、人に抜きんでた才能があり一地方で懼れられましたが、いかんせん身分が低い事がネックでした。そこで漢室に連なる名族である劉曄に
鄭宝「お前さんがボス、俺はナンバー2、それでこの土地は安寧に治まるだろう。どうだ俺の大将にならねえか?言っとくが嫌とは言わせねえぞ」と東映Vシネマの主人公のようなドスの効いた声で脅します。
断ったら殺されるとガクブルの劉曄ですが、その頃、たまたま曹操の使者が揚州にやってきて土地の実態調査を開始。それを知った劉曄は使者の下に足を運び、数日間も滞在しました。
鄭宝も曹操の使者が来た事を知ると数百人を従え牛と酒をもたらして使者のご機嫌伺いにやって来ます。劉曄は下僕に命じ、鄭宝一行を中門の外に座らせて酒宴を開き、鄭宝と共に宴を楽しみました。そして、密かに壮士を集めて泥酔した鄭宝を斬ろうとしますが、鄭宝は酒が好きではなく、あまり飲まないのでいつまでも素面です。
酌人も「斬れ」の一言が出ず、焦れた劉曄は自ら刀を抜いて鄭宝を斬殺。その首を獲ると
「これは曹操の命令である!動こうとするものがあれば鄭宝と同罪とする」と釘を刺しました。
鄭宝の手下数百名は、懼れて陣営に逃げ込み、逆襲を警戒した劉曄は鄭宝の馬に乗って陣営に乗り込みます。そしてリーダーを呼び出し、これが曹操の命令である事を布告するとリーダーも恐れ平身低頭し劉曄を迎え入れました。
ここで劉曄は不安を持っている数千の兵士に「悪いのは鄭宝だけで、お前達に罪は及ばない」と懇々と説得。その後、鄭宝の兵力を劉勲に譲り渡し自分も支配下に入りました。兵力を譲られた劉勲は、当初不審に思い「なんで兵力を手放すのか?」と劉曄に質問すると
「この連中を率いていた鄭宝はVシネに出てくるような悪党で残忍非情だった。ボスがそうだから子分もそうで、僕にはこの連中を食わせる資産もろくにない。このままだといずれ恨まれて殺されるから、君にやるよ」と答えたそうです。
こうして劉勲の配下になった劉曄ですが、劉勲は孫策の計略にハマって大敗。ボロボロになって曹操を頼り、劉曄もやむなく曹操に仕える事になります。
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隴を得て蜀を望む
曹操に仕えた劉曄は主簿として張魯征伐に従軍します。
しかし、陽平関に籠城した張魯と弟の張衛は堅く守ってビクともしないので、元来飽きっぽい曹操は「退却だ!退却」と劉曄に部隊の後退を命じます。
ところが劉曄は
「張魯には勝てます。このまま攻め続けるべきです。それに、ここで退却しても糧道が続かないので、兵力を温存して帰還できませんぞ」と戦争の継続を司馬懿と訴えたので曹操は考えを変えてもう少し攻めると劉曄の進言通りに漢中を落す事が出来ました。
ここで、さらに劉曄は蜀の劉備まで落とすべきだと曹操に進言
「劉備は人傑ですが、行動がカメさんなので今でも蜀人の心を掴んでいません。それに漢中が落ちた事で蜀人は動揺し、殿の威信になびいているので今ならば檄文を出すだけで蜀を落とす事が出来ましょう。グズグズしていると内政手腕がある諸葛亮が宰相となって国力を高め、関羽と張飛が三軍を率いて要害を守るので、二度と落とすチャンスは来ません」
ですが、曹操は危ない目にもあったし長期間鄴を離れるのが不安なので、「人の欲には限りがないなぁ、隴を得てさらに蜀を望むのかィ?」と嘯きそのまま帰還していきました。
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孟達の将来と劉備の仇討ち
西暦220年、蜀将の孟達が手勢を率いて魏に下りました。孟達は容姿と立ち居振る舞いと才能に優れ、文帝、曹丕はこれを寵愛し国境の新城太守とします。
しかし劉曄は「孟達は目先の利益に走りやすく自分の才能を頼んで己惚れているので、必ずや恩を仇で返す結果を招きます。新城は呉や蜀と近く、もし変化が生じれば国の為に憂いを生じましょう」と諫言しました。
曹丕は劉曄の意見を無視しますが、果たして孟達は曹丕の死後に諸葛亮に通じ司馬懿に討たれました。さらに劉備が関羽の仇討ちで兵を出すかどうかを曹丕が群臣に尋ねた時、多くの群臣は
「蜀は小国で名将は関羽のみであり、関羽が死んで国内は懼れ憂いており遠征する余裕などありません」と楽観しますが、劉曄は、
「蜀は小さく弱いですが劉備の計画は武を示して強くなる事であり、時の勢いで必ず軍勢を用いて天下に余力を見せます。しかも劉備と関羽は、立場上君臣でも恩愛は親子に等しく、関羽が死んでも報復できないようなら武人の一分が立ちません。よって、必ずや劉備は軍を興して呉を攻めるでしょう」
このように警告し、その通りになりました。
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孫権の内心を見透かす
劉備が攻めて来た時、孫権は急いで魏に臣従します。群臣はこれを喜びますが、劉曄は孫権が本当に降伏したわけではなく蜀に攻められて、二正面で敵を得るのを恐れているだけだと見抜きました。
やがて、劉備が夷陵で呉の陸遜に敗れると孫権は手の平を返して魏から離れて自立。怒った曹丕は呉に攻め込む事を決意しますが、劉曄は「呉は窮地を切り抜けたので、今倒すのは容易ではありません」と反対します。
もちろん、曹丕は聞かずに攻め込んで、何度も敗北。頑固な曹丕も劉曄の意見が正しかった事を認めざるを得ず、潔く謝罪し
「卿の見立てが正しかった。今後は朕のため呉蜀を打ち破る方略を考えてくれ。ただ朕のやりようを見て批評するだけではいかんぞ」と言ったそうです。しかし、その後も劉曄は、曹丕に対し呉蜀征伐の献策をする事はありませんでした。
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