「後漢王朝の権威が地に堕ち、民衆の怨嗟が渦巻く中。ある一人の男が、「漢王朝」を倒し、新たな王朝を築こうと決意した。彼はもともと宗教的なカリスマ性で信者が多かったので、たちまち、36万規模の大軍団が出来上がった。
組織づくりが抜群にうまかったその男は、その大軍にみごとに指揮命令系統を通し、漢王朝に対決を挑んだ。だが、その革命はあと一歩で失敗し、彼は戦乱の中で死亡してしまった」というふうに、カッコよく書いてみましょう。
さて、これは誰のことでしょうか?
そうです、三国志の序盤の「やられ役」である、黄巾賊の首領、張角のことです。
彼がやり遂げたことを、こんなふうに「あえて」彼に好意的に書くと、こうなります。36万という数字だけ、いろいろな説が乱立しているので、この数字の根拠だけ「あしからず」となりますが、しかし全体の流れについてウソは書いていません。
そうです!
整理してみると、張角のやったことは並外れた凄いことですよね!
もしかしたら、張角の評価がイマイチ低いのは、彼が結局は漢王朝に平定されてしまったからであって、もしあのまま漢王朝崩壊に迫るところにまで進んでいたら、張角こそ三国志の中でもトップクラスの英雄豪傑の一人にカウントされていたのではないでしょうか?
そんなシナリオを、今回は、考えてみましょう!
この記事の目次
「黄巾賊というのは暴動か?」「いえ、革命でございます!」
まず「黄巾賊」とはなんだったのかを、あらためて、おさらいしてみましょう。「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」というスローガンのもとに大軍勢を集めて決起した、後漢末期の一大反乱軍、というところです。
この「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」というスローガン。よく見ると、いいたいことは、「今の天は死んでいるので、我らが成り代わるべき」という精神。古代中国では、「天下が乱れれば、その王朝を打倒し、新しい王朝が興って平和をもたらすべしである」という考えが息づいていました。
「天にとってかわる」とスローガンで明言している黄巾賊。彼らの最終目標は、漢王朝の打倒と王朝交代であったと考えられるのです。「賊」などと言われているのは、史実においては負けてしまったからで、もし勝っていれば、むしろ「立派な革命軍だった」と評価されていたのかもしれない。「勝てば官軍」というやつです!
しかもその数、36万!
この破格の大軍勢の使い方によっては、王朝を狙える可能性も、決して無理ではなかったのでは!
そしてこの大軍を生み出し、率いて善戦した張角という人物。カリスマといい、リーダーシップといい、組織づくりのセンスといい、実はたいへんな大人物だったとも推測できるのですが、いかがでしょう?
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やりようによっては勝ち目が十分あった?張角の天下取りプラン!
そこで、次にこう考えてみましょう。漢王朝に対する黄巾賊には、そもそも勝ち目があったのでしょうか。天下を取ってかわる、勝ち筋はあったのでしょうか?それを考えるには、以下を見ていただければと思います。黄巾賊の前後には、他にも以下のような反乱が起きています。
・漢中方面では、五斗米道の乱
・今でいう北ベトナム付近では、交趾の乱
・さらに黄巾賊が平定された少し後には、黒山の賊という、なんと100万人規模の大反乱が発生
張角がもう少しねばり、これらの反乱勢力と連絡を取り合い、行動を共にするところにまで着実に進めていたら、どうなっていたでしょうか。彼が動かせる手勢はなんと100万人を超えたかもしれないのです!
人海戦術で洛陽を落とすにはじゅうぶんな巨大さです。王朝交代の可能性を十分に持つ大軍団に到達するまで、張角はあと一歩だったのです。
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まとめ:いったい黄巾賊の乱が平定されていなかったら、どうなっていたのか?
では、もしそのまま黄巾賊の乱が平定されなかったら、どうなっていたのでしょうか?
「張角が洛陽に入り、皇帝を名乗り、天下統一が完成!」というシナリオが起こっていたのかもしれません。ただ、これで戦乱が終わったかとなると、これはやはり、心もとないですよね。よしんば百万単位の大軍になって王朝を興したところで、所詮は腹をすかした怒りから立ち上がった烏合の衆。
張角がいったん天下統一を成功させたとしても、そのあとには、たいへんな分裂と内紛の波乱がやってくるものと予想されます。せっかく洛陽を落とした張角政権が大混乱。
では、そのときに立ち上がるのは誰か?
地方に割拠して力をためていた、曹操であり、孫策であり、劉備。となると、もしかすると、後漢王朝が黄巾賊の平定に失敗し、張角が洛陽を落としてしまっていたとしても、その後の三国時代の展開はあまり変わらなかったかもしれません!
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三国志ライター YASHIROの独り言
むしろ、洛陽に入った張角は、野心に溢れる各地の群雄たちの、格好の標的にされてしまっただけかも。乱世の定めとは、そういうことかもしれません。ですが、後漢王朝が黄巾賊の平定に失敗し、張角が洛陽を取ってしまったというこのシナリオには、ひとつ愉快なことがあります。
三国志序盤の大悪役が、董卓から、張角に入れ替わるわけです。三国志物語序盤の盛り上がりは、反董卓連合軍ではなく、反張角連合軍の戦い、という展開になっていたかもしれない。これはなんとも、「張角ファン」の人々の留飲が下がる想像ではないでしょうか?
もっとも「張角ファン」という人々が三国志ファンの中にどれくらいいるのかは、私にもなかなか、予想しかねますが。ぜひ一度、「賊」扱いで歴史の中でひどい扱いを受けている張角にも、見直しのスポットライトが当たってほしいと、こんなシナリオを考えてみました。いかがでしょう?
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