平安の昔、さる左大臣の家に生まれた双子の男女、男の子は内気で大人しく、女の子は活発で聡明でした。父の左大臣は、二人の性格が反対ならよかったのにと悩み、ついに男女の性別を取り替えて育てる事を思い立ちます。
そんな昔話にヒントを受けた三国志とりかへばや物語、今回はいよいよ趙雲を取り上げて、いや、とりかへばやしてみたいと思います。
ただしこの趙雲と言う人物、何とも難しい人物です。もちろん人間性に問題があるとか、そう言うことでは決してないのですが……ううん、本当に難しいそんな説明までちょっと難しい趙雲について話しつつ、とりかへばやを考えてみましょうか。
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高身長、筋肉質、イケメンの三拍子
さて趙雲、字は子龍。三国志に付いている注釈の「趙雲別伝」によれば、身長八尺、約185cmとかなりの高身長であり、姿体つきはとても立派な人物であるとされ、三国志演義ではこれを取り入れられて立派な姿の趙雲像を見ることができます。
長坂での劉備の妻子の救出をするなどの活躍をし、劉備の亡き後の蜀も良く支え、趙雲別伝によると諸葛亮の北伐でも手柄を挙げ、上手に撤退しつつもその褒賞は断るなど、諸葛亮からも良く称賛される人物と記されていますね。
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趙雲別伝でエピソードましまし
で、ここで問題になるというか……ちょっと気にかかるのが趙雲別伝。趙雲は正史の記述が非常に少なく、その記述は注釈の趙雲別伝によるものがとても大きくなっています。
また趙雲別伝の記述と正史の記述……例えば劉備陣営に加わった時期など……にも齟齬があることから、趙雲別伝は趙雲の家伝を改編したものであるのではないか、という疑問視もされています。
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趙雲は劉備への忠義を貫く
しかし、趙雲は正史にしっかりと「勇猛でたびたび勲功を立てた」「落ち着きがある性格」とされているので、決して三国志演義などで思い描かれるようになった趙雲像には外れはないと思います。
また晩年の蜀に至っては趙雲のこの性格、性質と能力は諸葛亮にとってはなくてはならないものであり、頼りにされ足るのも納得できるところです。
間違いなく、趙雲は真面目で忠義の人であり、そつなく色々なことをこなしくてくれる有り難い人物であったことでしょう。さてそんな趙雲とりかへばや、やってみましょうか。
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目立ちたがりの姜維とトレード
三国志演義では趙雲と一騎打ちを行う姜維。諸葛亮に後継者として見出され、正史においても母親に「わたし蜀で出世するよ!」と手紙を書いているので、少なくとも、三国志演義とはまた違うものの、姜維は最期まで蜀と言う場所で自らを奮い立たせていたのでしょう。
趙雲が晩年の蜀に居たらどうなるかは正直言うと「あそこから立ち直るのは無理」だと思いますが、姜維ほど追い込まれるように戦うことはなかったと思いますが、それでももう少し魏延の不満などを緩和できるように動いてくれたのではないかと思います。
姜維はどちらかというと劉備と引き合わせて、劉備が姜維を「どう見るか」を確認して見たい人物ですね。
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総合で趙雲に似ている趙郃とトレード
趙雲は正史の記述が少ないものの、残された記録から色々な場面でそつなく働き、きっちりと仕事をしてくれる優等生みを感じることができます。
そこで魏でとりかへばやをするなら、張郃はどうでしょうか?
趙雲と同じく数多くの戦いに出陣し、時に主将として、時に副将として場をまとめることのできた張コウ。彼らならとりかへばやをしても、もしかしたら名前が違うだけでそう違いのない働きをこなしてくれるかもしれませんね。
たぶん馬謖戦もほとんど対応変わらないだろうな。
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