ことわざには、よく矛盾する意味が出てくる事があります。
たとえば「トンビが鷹を産む」とは、凡庸な人から非凡な子が生まれるという意味ですが、同時に「蛙の子は蛙」ということわざもあり、凡人の子もやはり凡人と言っています。
さて、蜀の阿斗チャンマンこと劉禅には、皇太子の劉璿がいましたが、果たして彼は蛙だったのか?鷹だったのか?解説してみましょう。
この記事の目次
劉璿の母は敬哀張皇后の侍女
劉璿は西暦224年、蜀の二代皇帝劉禅と劉禅の最初の皇后である張飛の娘、敬哀張皇后の間…ではなく、皇后の侍女の子として誕生しました。
つまり、劉禅は皇后の周りの世話をしていた侍女を見初めて関係を持ったという事です。この事で敬哀張皇后は侍女に嫉妬したのか、劉璿はしばらく皇太子に立てられず西暦238年、敬哀張皇后が死去した後に15歳で立太子されました。
劉璿は費禕の娘を妃にもらい、皇太子として生活を開始します。
劉璿は狩猟が大好きだがやりすぎて霍弋に怒られる
劉禅は劉璿の教育係として霍弋を中庶子につけました。霍弋は諸葛亮の養子、諸葛喬と仲が良く共に諸葛亮の薫陶を受けた人なので、教育係としては丁度良いと思ったのでしょう。
劉璿は騎射が好きであり、ハマりすぎて毎日のように馬を乗り回して限度が無かったので、霍弋は古の故事を引いて
「狩りばっかしていると、どこかのアル中ヒゲダルマのように部下全員に嫌われても気づきもしない性質が悪い大人になりますよ」と劉璿を諫めました。このような事があり、劉璿は節度を持って騎射に臨むようになり、その腕前はかなり高かったようです。
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劉璿は平凡な人物だった
劉璿の学問の師は郤正でした。この郤正が文士秘書郎であった頃、直言で有名な孟光の屋敷に通い、学問上の色々の質問をしていました。
ある時、孟光は郤正が劉璿に対してどんな教育方針を取っているのかと尋ねると郤正は「陛下に孝養を尽くし、家臣については恩愛を基本として接しております」と解答します。
しかし、孟光は不満そうな顔で「そんなのは、どこの家だってそうだよ。そうじゃなくて皇太子の叡智がどの程度のものであるかを知りたいのだ」と聞き返しました。
郤正は不愉快でしたが、言葉を選びながら「皇太子の立場は、一般人のそれと違い型破りな事は出来ません。どうしても、ある程度、前例踏襲主義になるものです。また、叡智とは普段は心の奥に秘めておき、いざという時に現れるもので、教えろと仰せられても出来ません」と反論します。
孟光はそれを聞くと「平時ならそれでいいが、今、天下は三分されて治まっていない。君が教えた事を、皇太子が覚え答案用紙に書いてハイ百点!ではなんの役にも立たない。皇太子が努力し本当の叡智をつかむようにしないとダメだ」とアドバイスしました。
郤正はそれを聞いて、内心もっともだと思ったそうです。
ここから分かる事は、劉璿は祖父の劉備のような世間で揉まれて本当の叡智をつかんだ人物ではなく、温室育ちで教えられた事をやってのけるだけの平凡な人だったという事です。
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劉璿の死因:成都大擾乱の中で殺害される
劉璿が41歳の時、蜀は鄧艾と鍾会の軍勢により攻め込まれ成都は陥落します。劉禅は部下の勧めもあって降伏しますが、鄧艾は寛大な態度を取り、劉禅を引き続き宮殿に住まわせた上、驃騎将軍に任命して慰労しました。その後、劉禅は一家と洛陽に移る事になり、旅支度を開始します。
しかし、この後、鄧艾は蜀で独立を企んでいると鍾会に讒言され、罪人として洛陽に向けて護送されました。成都には鄧艾を排除した鍾会が乗り込み、姜維と組んで魏への反乱を企てます。
鄧艾は成都の宮殿で衛瓘に捕らえられているので、劉禅は鄧艾と同居していたと考えられます。もっとも同居といっても広大な宮殿なので劉禅の家族も不便なく済む事が出来たでしょう。
その後、成都城には鍾会が乗り込んできますが、まもなく反乱は失敗。
成都城の外に待機していた二十万の魏兵が一斉に成都城の塀を乗り越えて乱入、鍾会と姜維を殺害します。それから数日間、成都は大擾乱と呼ばれる無法地帯と化し、多くの人が死に、略奪が横行したようです。この時、劉璿は魏兵に殺害されました、享年41歳。
どうして劉璿だけが殺されたのか?
しかし、ここで不審な点が出てきます。成都大擾乱では劉璿以外の劉禅の家族は1人も死んでいないのです。それなのに、どうして劉璿は殺害されてしまったのでしょう。
たまたま運が悪かったとも言えますが、あくまで推測として劉璿は姜維や鍾会に積極的に賛同し、クーデター計画に一枚噛んでいたとも考えられないでしょうか?
だとすれば、姜維と共に行動していたハズで、そのため巻き添えを食う形で殺害されたと考える事も出来ます。逆にそれ以外の劉禅の子供たちは、下手に動かなかったお陰で危難を免れたという事かも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
劉禅の息子の中には、降伏に反対して妻子を殺害した上で自分も抗議の自殺をした劉諶が有名ですが、嫡男の劉璿も実は姜維に味方してクーデターの矢面に立っていたとしたら、「劉禅の子は意気地なしばかりではないぞ」という事になり、面白いですね。
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