キングダムにおける主人公の国である秦。漫画ではやたら弱い事が強調されますが、実際は1国で余裕で2~3国を相手に出来るほど強力な帝国でした。では、そんな秦はどのようにして強くなり戦国七雄の頂点に立ったのでしょうか?
この記事の目次
秦はなぜ強かったのか?
そもそも、秦はなぜ強かったのでしょうか?
元々、秦は中国の辺境にある王国で国力も文化も低い野蛮な国と見られていました。そんな秦が強くなったのはそれまで分散していた権力を国王に集中したからです。
権力集中を説いたのは商軮という外国人で、国王でも逆らう事が出来ない法という概念を生み出し、法に従う者はどんなに身分が低くても褒美を与え、法に逆らう者は皇太子でも容赦なく処罰しました。
これにより秦の人々は法を恐れ渋々国王の命令に従うようになります。ところがそれに慣れると人々は積極的に法を守って褒美を得ようとし、戦争でも率先して敵に襲い掛かるようになりました。こうして商軮の死から百年ほどで弱かった秦は中華統一を成し遂げたのです。
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秦の歴史は?
始皇帝の祖先は非子という人で周王に仕えて馬の生産に従事していました。非子は馬の世話が上手で、馬を太らせ繁殖させたので周王は紀元前900年頃、非子に嬴という姓を与えて貴族に取り立て辺境にある秦邑という土地を与えたのが秦の最初です。
紀元前770年に周が犬戎族に攻め込まれて首都を失った時、秦の襄公は周を守ってよく戦い、その功績で貴族から諸侯に格上げになり、伯爵の地位を受けます。
以後、秦の歴代君主は、西方の異民族と戦いながら勢力を拡大。紀元前4世紀の孝公の時代に諸国から人材を集め、その中にいた商軮が商公の変法により国王に権力を集中して秦を強国へと導いていきました。
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秦はなぜ滅びたのか?
そんな最強の国がどうして滅びたのでしょうか?
秦が滅亡した理由も、また厳しすぎる法のせいだったのです。
始皇帝は六国を滅ぼした後、秦で通用していた法律をそのまま六国に適用しました。当然、六国では秦の法律に慣れていないので大混乱が起こります。特に秦の法律が厳しく、ちょっとした事で厳罰が課される事も六国の人々に不満を与えました。
それだけなら、そのうち慣れる可能性もありましたが、始皇帝は五百年の戦乱で疲れ果てた六国の人民を酷使して万里の長城を建設し、自分の墓である驪山陵の造営や屋根に1万人の人間が座れたとされる巨大宮殿阿房宮も建設します。
これでも、中華を統一した始皇帝の恐ろしさに人民は我慢していましたが、始皇帝は中華統一から10年で死去。その時、虐げられた人民の恨みが爆発し中国各地で反乱が相次ぎ、秦は始皇帝の死後、4年で滅亡しました。
厳しすぎた秦の法律
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秦国の最後は?
始皇帝の死後、1年もしない内に始皇帝の墓である驪山陵の人夫引率役だった陳勝と呉広が僅か千人余りの人夫と暴動を起こします。この小さな暴動は瞬く間に広がり、百万人を超える農民反乱に成長、陳勝は張楚王を名乗って秦の都、咸陽を落そうと進撃を開始しました。
この時、秦では二世皇帝胡亥を擁立した宦官の趙高が自分に批判的な将軍達を次々と殺戮して人材が消えていて、このまま滅亡しそうでしたが、生き残っていた章邯という名将が驪山陵で働いている罪人を兵士として組織し陳勝の反乱軍を撃破します。
ところが、陳勝の死後、項梁と項羽、それに劉邦のような有能な人材が反乱軍に登場。章邯も項羽に敗れて投降。項羽が戦っている間に、小数の手勢を率いた劉邦が武関を突破して咸陽に到達。3世皇帝子嬰は降伏し秦帝国は建国から15年で消滅します。
しかし、悲劇は終わりませんでした。劉邦の後からやってきた項羽は子嬰を許さず処刑し、同時に部下に対し略奪を許します。咸陽には殺戮と略奪の嵐が吹き荒れ、700年も継続した秦の帝都、咸陽は焦土と化したのです。
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